野末陳平の「ギャンブルのすすめ」

 あろうことかつまらぬ事をいうようだが、子どもの頃――それはおそらく中学生時代まで続いた観念なのだけれど――率直にいって「麻雀牌」にあこがれていた。
 麻雀(マージャン)の牌(パイ)に、である。

麻雀牌とドンジャラ

 「牌」という字はなんとなく意味ありげなことばから来ているのではないか? と疑うのだが、例えば三省堂の『現代新国語辞典』(第七版)でひくと、《マージャンで使うこま》としか記されていなくて素っ気ない。
 次いで「マージャン」をひいても、素っ気ないのだ。《[中国 麻雀]四角のテーブルをかこんで四人でする、中国伝来の室内ゲーム。一三六枚のパイを組み合わせて上がり点をきそう》
 たいそう私の中でマージャンというのは、オトナだけが楽しめる、高飛車な遊びにも思えたのだけれど、その子どもだった頃、〈麻雀がしたかった〉――というえらく直球なる表現で喩えても良さそうなのだが、むしろ「麻雀牌」の美しさに惚れ、それを手に取って眺めてみたいという気持ちのほうが正確なのである。

 それは、ドラえもんの“ドンジャラ”の影響だったのだろうか。
 いや、そうではなく、むしろ逆で、「麻雀牌」にあこがれていたからこそ、“ドンジャラ”も好きだったのだ。
 なのに過去の[Utaro Notes]で、一度も“ドンジャラ”の話をしていなかった気がする。ただし、自身の旧ツイッターで私はこんなことをツイートしていた。

小学生の頃、「ポンジャン」だったか「ドンジャラ」だったか、非常に親父臭いゲームをやりに、友達の家に通っていたのを思い出した。学校が終わってその友人の家に行くと、もうとっくに4人がジャラジャラとやっていて、〈ここは雀荘か…〉と内心思った。部屋にはツマミが散乱してたし(-_-;)。

旧ツイッター2013年12月17日付ツイートより引用

 酒もタバコもまだやっていない子どもだよ。だが友人宅が、どう俯瞰して見ても雀荘と化していたよ――というエピソードである。
 どうかドン引きしないでいただきたい。いま我が家に、“ドンジャラ”も「麻雀牌」もどちらも有るのだけれど。

『洋酒天国』のギャンブル特集

 そういう麻雀の話は――とりあえず置いておく。5年前だったか、ある小さな小冊子を眺めていて、忘れかけていた麻雀憧憬の思い出を想起したのであるが、一旦、この話は脇に置いておく。

 物価高騰であえぐ、超保守的な今時代からは逆行し、私自身の人生における流儀からしても、些か反することを承知のうえでこれから筆を下ろす。
 これらのことをきっちり仕舞まで書いて、物事を判断していくと、もしかするとこれからの世の中を楽しく生きられる糧となるか、あるいは奥深いところで、反面教師的に人生訓の参謀書となりうるか否か――ぜひ刮目してみたいのである。ギャンブルの話である。
 私がかつて眺めていたそのお気楽の本には、ギャンブルについてのあれこれが、めっぽう語られていた。だから今宵はもう一度、その大いなるギャンブル道をテーマにしてみたい。

 そのお気楽の本とは、『洋酒天国』のことである。
 コロナ禍時代の気分的な不始末だったとまではいえない。が、その頃、『洋酒天国』第60号の特集でギャンブルについて紹介した。
 このギャンブルというオトナの享楽的な遊び心の度合いが、私自身の流儀とも合わないのだけれど、それもまた生真面目すぎた(?)若かりし頃の影響であり、今は、多少なりとも人生の余白は必要だと思う。そう思っているから、多少緩くなってきている。でも、オンラインカジノみたいな、国内の法律にふれるようなことはしない。
 壽屋(現サントリーホールディングス)PR誌『洋酒天国』(洋酒天国社)第60号。5年前の2020年9月に、つらつらと紹介している。ギャンブルを――。ちなみに第60号の発行は、昭和38年12月とかなり古い昔である。
 5年前にそれを紹介したのだった。見返すと懐かしい。いろいろと思い出すことがある。表紙のコラージュ・カットの力強い目が、俳優の柳楽優弥さんに似ているとも書いた。むろん、本人であるわけがない。忘れないように、何度もしつこく繰り返していうが、この本はギャンブルを特集しているのであった。

ノズエチンペイ登場

 コロナ禍時代というと私は、野末陳平氏の『ユーモア・センス入門 学校職場・家庭を笑わそう』(KKベストセラーズ)も紹介していたのだった。どちらかというとギャンブルの話をするより、こちらの古い時代のギャグだとかユーモアのほうがセンシティブに今時代に合わない。最近私はSNSで、ろくでもない政治家を揶揄し、

《不見識な人の特徴というのはありますね。まず人の話を聞かないタイプ。自分だけベラベラしゃべる人。ウケ狙い、ネタを考えてるとかオチがあるとか、とにかくそういうことばが出た時は要注意。物事を全てウケ、ネタ、オチでしか考えないタイプの人は、自分が芸人であるかのように錯覚している人。けっこういますよね》

 と書いた。しかし、ふと思った。
 これって、コロナ禍の時に突拍子もないノズエチンペイの本を紹介した、私自身の不見識をいっているのじゃないか。ウケ狙い、ネタ、オチ…。そうだ、おんなじだ。コロナ禍の頃、遊び心の度が過ぎて、野末陳平のユーモア本などを紹介し、少し狂っていたのではないか。猛省。

 いや、だから、不見識だからこそ今、あのノズエ先生の「ギャンブルのすすめ」なんじゃないか。うーん? いま思った。なんだ、この理屈は?

狂気であるかもしれないノズエチンペイ

 理屈なんてないかもしれない。
 『洋酒天国』第60号に、野末陳平氏の「ギャンブルのすすめ」というエッセイが掲載されている。これをあらためて読んでみたのだ。
 その、なんというのか、これがまた文章がなかなか面白いのである。

 鋭い含蓄であった――。やはりあのとき、正面切ってこのエッセイを紹介すべきだったのではないか。

 しかし、やはり錯誤のエッセイである。トンチが効きすぎているため、人によっては猛毒となる。昭和30年代のエッセイであるがゆえに、今時代の青年部(20代の男女のこと)、又は少年部(10代の男女のこと)の彼らには絶対に飲ませたくない。
 ともかく一般として、かたくなに今、ギャンブルを薦められても困るはずだ。だって世の中は、すっかり余興の時代ではなくなっているから。
 青年部の方、少年部の方は信じられないかもしれないが、昭和時代の昔は、会社で社員を集って団体旅行(これを慰安旅行と称した)に行き、行った温泉地でどんちゃん騒ぎをやり、大酒をかっくらい、マージャンをやり、キャバレーに行き、ストリップ劇場で女性ダンサーの裸ショーを見に行った。多くのサラリーマンがそんな優雅(?)な余興で楽しんでいる中で、孤独な真面目サラリーマンはそういう遊びをしなかった。

 そういう遊びを優雅だとか高尚だとかというつもりはさらさらないのだけれど、少なくとも今、遊び心を忘れてしまっている現代人がいる。日本というちっちゃな島国の地の果てが、まさに地の果てとして露出してめくれかえっている絶体絶命の危機の中で、賭け事や博打(ばくち)にうつつを抜かすわけにはいかないのだ。
 しかしながら、そういう私自身は、真面目くさってギャンブルというものの怖さも楽しさも知らないのだった。ギャンブルに対しては無知であり、子ども同然なのである。だから、ギャンブルについて真味に語れるわけがない。
 野末陳平氏を、ペテン師という事なかれ。ノズエ先生のことばには、ギャンブルを知っている真実味がある。あのいかがわしい余興の時代の享楽の、あらゆるいざこざを知り尽くしている。だから今、この時代にこそ、ほんの少し耳を傾けて、噛みしめて聞いてみてもいいのではないか。

ノズエ先生の「ギャンブルのすすめ」

ギャンブルは憲法に忠実であるということ

 さあ、「ギャンブルのすすめ」である。

 さすが、のちに政治家(※1977年に新自由クラブという政党に所属。参議院議員)にもなった人の雄弁なのである。
 いいですか、皆さん。よく聞いてください。自由平等を希求する平和憲法というのが日本にありますね。それを日本国憲法といいます。ギャンブルはその憲法の理念に、真っ向から忠実である――というわけです。

 ノズエ先生曰く、そんなこといったって、誰も憲法の理念の中身を信じちゃいないだろうってね。
 それもそうです。自由だろうが平等だろうが、そんなものはっきりいって、この世に無いじゃないか。…なるほど、おっしゃる通りです。何が自由で、何が平等なのか――。昭和から平成、令和とほんの少し長く生きてきた私でも、さっぱりわかりません。
 ただし――。ノズエ先生はですね、ギャンブルの世界のみは、その例外だというのです。おい、マジか?

 これはちょっと、危険な見識ではないか? と私は疑って思ったのだけれど、先生は珍しくマジメに、次々と論じていくのであった。

ギャンブルは肩書きも血統も無力である

 なるほど。
 ギャンブルは、コネなんか通じない世界なんだと。知性も、教養も、そんなの邪魔であると。
 こんなことをノズエ先生はいっています。

《堂々と雄々しく、男が男の力をためせるのである。自由だ。平等だ。憲法の精神を正しく生かす場は、ギャンブルしかない》

 これは面白い。ギャグだ。いや、違う。本気だ。
 それはつまり、“男の力”を試せる世界であって、その世界においては男性優位であり、女性はつまはじきされてしまうのだけれど、ともかく、《正々堂々たる実力の勝利》というものの世界なのだから、ギャンブルは楽しい――という説である。

 めくれかえった地の果ての現実を表しているという点では、間違ったことをいっていないと思える。その遠因としての「男は女にメシを食わせてやっている」という愚かしき幻想も、ひっくるめて超然とした現実世界の一端ではある。

 そう、男は狂っているのだ。
 妻はよくしゃべり、あの娘は今夜食事に出かけて遅く帰ってくるとか、息子は塾の帰りにバイトに行くとか、あの家のおじいさんはおしゃれでポマードがひどく輝いていたとか、あの老舗の和菓子屋さんのモナカの、それはそれはおいしかったこと。あんこの甘さで疲れが取れましたとのこと。
 旦那さんはずっと黙っていて、ウンともスンともいわない。テレビのオール阪神・巨人の漫才を聴いている。「お茶」とか、「新聞」とかしかしゃべらない。やがて風呂に行く。妻は洗い物をする。夜が更ける。それでおわり。

 久遠の清々しい世界だとはちっとも思わない。だが根っから、「男は女にメシを食わせてやっている」が蔓延っている。現況日本の、みみっちい現実世界としては、気負うものは立ち去り、自信に満ちた勇者のみが近づくことのできる高い丘がギャンブルの世界だ――ということを、ノズエ先生はそのエッセイの中で述べられていてしみじみ想う。
 私は想像して已まないのだ。狂ってはいるが、現実の世の中である――。

 だがしかしだね、ギャンブルなんてさ、いつも儲かるとは限らんじゃないか。
 そういう人に対し、ノズエ先生はこう論破するのだった。

《損したらまた働くんだな、資金稼ぎに》

 いま旦那さんはモナカどころではなかったのだ。明日こそ勝ってやる。明日への勝利だ――と、燃えたぎっていた。こまかくちぎり捨てたはずの馬券が、彼の寝室のベッドの下に、ひとかけら落ちているのであった。“男の力”――。これはもう強靱な、男たちをわけもなく奮い立たせる暗示ことばなのである。

 いやね、アナタ、ここまで読んでいると、腹立ってくるかもしれないから、あんまり真剣に読まないでください。先生の論述は、ここからがいっそう面白いのではありますが…。

ギャンブルは合法的離婚の道を開く事

 女房に飽き、家庭は重荷だ、別れて独りになりたい――と思った殿方には、ギャンブルの徳をおすすめする、という。

 世間ではギャンブルなんて、「百害あって一利なし」っていうじゃないか。でも憲法の精神にのっとり、人間最高の喜びを与えてくれるんだって。ギャンブルはいわば、社会の徳だ…。これは面白い。

《ギャンブルに熱中する間は、ストレスも解消し、借金の悩みも失恋の痛手も忘れる。生命の充実を感じる。一億総ギャンブラー化は理由のないことではない》

 家庭では非難囂々となるだろうが、妻よりも自分がかわいいのが男心なのだから、気にするな――。

《ギャンブルに血迷った結果は、妻子に見はなされる。人間のクズ、頼りにならぬ亭主と世間が認める。非難、軽蔑、侮辱、耐えがたいことかもしれない。ここが男の子、がまんのしどころである。気にもせず日夜ギャンブルの鬼、もはや救いがたい。妻子は亭主を捨てて去っていくであろう。合法的離婚である》

 《ギャンブルは人間修業たる事》といった論述がこのあと続くのだけれど、さらに非難囂々となるのが恐ろしいので、ここまで、とさせていただく。しかしながら、「合法的離婚」というのはなかなかの名案ではなかろうか。ノズエ先生の最後のことばは、実にトンチが効いている。

《ギャンブルはゼニを残す。女は何を残すか。ガキを残してくれる。たまらない。オンナよりギャンブルが高級な所以である。ギャンブルを愛そう。ギャンブルに生きよう!》

質実剛健なギャンブルの世界

 これほどまでにマジメ(?)に、ギャンブルの世界を語った人は他にいただろうか。さすが、ノズエ先生である。昭和38年の気炎ということは忘れてはならない。

 でもねえ、これってほんの一昔前の日本だったような気がする。

 1990年代初めの話。
 私が卒業した千代田学園(千代田工科芸術専門学校)の本校舎は東京・上野の下谷という界隈にあったのだが、その校舎の3階は学生たちの食堂兼たまり場となっていて、さすがにそこで麻雀こそやっていなかったであろうが、競馬新聞を片手に、焼きそばを食い、タバコを吹かし、その学生たちの灰白色のタバコの煙が、天井付近でただならぬ時間帯を漂っていた。そんな光景が、私の頭に焼き付いていて離れないのだ。
 たぶん、場所を替えて夜にでもなれば、どこかの雀荘で麻雀遊びにしおれきっていたであろう想像はつく。いや、その一端はギャンブル狂なのである。一言断っておくが、必ずしも男だけの世界だったとはいえない。連れの女子学生だってその背後に追随していたし、結局男性も女性もまだその頃は、それが都会生活の日常的様相だったのだ。

 そう考えると、ノズエ先生の「ギャンブルのすすめ」というのは、戦後日本人の「享楽的な人生語録」だったといういい方はできるし、むしろ、質実剛健なギャンブルの常識的見解だったのではないか。その影で、「合法的離婚」ということばが生み出される。
 離婚は本来的に、双方の理不尽な定型のみで醸成されていた。ところが合法的解釈にのっとって、その双方が別れるための戦法、戦術という知恵がこれで見いだされたのだ。

 とどのつまり、これからますます貧しくなり、品行方正の立場から脱落していく日本では、「合法的離婚」が増えるであろう。
 その背後に、ギャンブル狂がある。
 昨今、ちらちらとそういう芸人さんの落城話も出ているではないか。じゅうぶんあり得る話なのだ。

§

 私の「麻雀牌」フェティシズムとは一線を画すのが、野末先生の「ギャンブルのすすめ」であった。私の場合は単に、パイが好きなだけなのだ。ジャラジャラとした音も、ね。

 ところであの時、学生がうじゃうじゃといた場所で、赤鉛筆を耳にさした私がタバコの煙を吐き捨て、競馬新聞を眺めていたかどうかについてのご推察は、どうかご遠慮願いたい。いくら否定しても、信じちゃもらえないかもと思ったら、否定するのも馬鹿馬鹿しくなる。ふれちゃいけないよ、こういった話は。
 だいたいこれ、私の話だって、全部ウソかもしれないじゃないですか。ウソかもしれないけれど、本当の話が、けっこう混じってる。いやウソではないかもしれないが、どうもウソっぽくなる話――。
 まあいいや。ノズエ先生のその作文術だけは、しっかりとモノにさせていただきますので。
 ではまた、どこかでギャンブルの話を!

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