悲しいお坊っちゃまたちでバグる世界

 ふりかえって夏。暑さでだらりとした午後を和らげるおやつを食べたのだった。葛餅(くずもち)である。

 葛餅は、葛粉(くずこ)を水で練って固めた和菓子――。
 葛粉というのは、クズの根からとった粉であるが、昔、奈良に旅行した時、御当地の贅沢な葛粉でできた葛餅をいただいたことがあった。とても美味しかった。しかしながら、たいてい余所の地域で出回っている葛餅は、生麩(しょうふ)の粉による代用――と初めて知り、思わずうーんと唸ってしまった。
 葛桜(くずざくら)というのも夏の和菓子である。サクラの葉で包んだ葛餅のこと。しかしこれも、本当にサクラの葉で包んだものばかりなのだろうか。何か別の木の葉っぱで代用しているのかも――と、疑いたくなる。いや、致し方ないことなのだろう。だから、これ以上調べるのをやめた。

 秋になり、雨で湿った空気がよどみ、河川敷に繁茂した大ぶりの雑草が斜めに折れ曲がって、歩く私の腕や脚にそのタネのようなものがたくさんひっつく。非常にうっとうしい。「草葉の陰」というのは、墓の下のあの世のことであるが、まさにその草葉で、戯れたくもないあの世の使者が、私に何やらいいたくて、悪戯しているのではないかと思う。

 「草葉の陰」ではなくて、“草間の影”――ともいうべきメディアのチンケなニュースも、一月も過ぎればみんなぽかーんとして忘れているのではないか。優美な秋虫が啼く頃にして、うっとうしいニュースであったが、今はもう冬に近い。冬支度だ。

お坊っちゃまA

彼ならアンチヒーローになれる?

 テレビの特撮ヒーロー番組でスーパー戦隊シリーズが50年目にして遂に終了するというニュースが飛び交い、「またまた」と私は腹の中で思った。
 「終わる」といえば、ヒトの心情は不思議なもので逆に群がる。売上が伸びなくて、もうお店たたみます、終わりですといった途端に、お客が列をなして増えるというのが世の常。だから「終わる」というのは、次に繋げるための話題作り――と考えたほうがいい。とくにエンタメの場合は。

 でもね、どうせ「終わる」のなら、最後のヒーロー(いや、アンチヒーロー?)の一人を、彼にしてほしかった。公然わいせつで逮捕されたAぇ!groupの草間リチャード敬太さんである。彼が29歳だと知って私は驚く。どういう意味で驚いたかは私もよくわからない…。それはともかく、概ね、どのメディアも〈大した罪ではないよね〉的な空気を膨らませて、まあはっきりいえば彼の早期復帰のポテンシャルを掲げて擁護している感じがした。私も事件の概要を知ってから、わずかながら、彼に同情しないでもない。でもまあちょっと、29歳というのはギリギリかなあと。

 自分の生き様をヒーローだと思いこんでた人が何かをやらかして、世間に叩かれて、仕事が危うくなって、ようやく自分の中にアンチが居ることを知る一歩手前の段階で、彼は泣いたのだろうと思う。〈ボクはアンチヒーローなんかに絶対なれないよぉぉぉ〉って。
 でもね、自分の真の姿を一旦許容してしまうと、というか乗り越えてしまうと、たちまちアンチになれるものなのだ。すごく悪い表現になってしまうが、極端な例でいうと、これから彼は全身タトゥーだらけの肉体を晒してエンタメの世界を生きることだって可能なのだ。アンチヒーローを演じる草間さんを想像するのは、決して難しいことではないと思う。

酒は飲みすぎると美徳を損ねる

 話が先に行き過ぎたので、戻す。
 大昔の芸能界の常識は、一般論で括れない部分が多くて、そこに齟齬が生じて問題になるケースがあったが、芸能界自体の品位が疑われるようになると、もはやアンチのままではいられなくなって、健全なるビジネスモデルとして一般常識と齟齬がないよう、コンプライアンスを遵守する姿勢が求められるようになった。マスコミも以前なら、持ちつ持たれつの関係で彼らを全面的に擁護できたが、その姿勢の是非も今日問われるようになってきたため、体質改善のできぬ一部のオールドメディアは、大衆からそっぽを向かれ、古いビジネススタイルの成れの果てとして、消耗の一途をたどる運命にある。

 そういう時代の中、彼――草間リチャード敬太さんの場合、公衆の場で自身の性器を晒し、公然わいせつの疑いで逮捕という事件になったわけだが、一般常識として当たり前の話、公衆という場においては、自己の欲求で盛んなものを、社会的観念と位置づける理性で抑えなければならないのは、社会人としてのつとめである。またそれは道理であり、理性を重んじるのは美徳である。
 それが、本来のヒーローの姿なのだ。だが彼は、その分別がつかなかった。かろうじて同情的余地があるのは、酒で「酩酊していた」ということがいえるのだが、それでもやはり、限度を超えて飲むことを慎むのもヒーローのつとめであり、彼はそれになれなかった。
 人はどんなに普段、美徳の生活を重んじて考えていても、何かの事案で精神的負荷がかかり、いつのまにか酒の勢いに頼り、他人を冒涜したり、肉欲を満たそうとしたりして、枷を外してしまうことがある。若いうちはまだ未熟な面があるから、省みるチャンスはいくらでもあるが、彼の年齢を考えると、やや遅いといわざるをえない。その歳で枷を外してしまうことは非常に危険である。

 しかし、こうもいえるのである。草間ちゃんは、典型的な「お坊っちゃま気質」の男のコで、そういう子が犯した事件だからしょうがないけど、とりあえず今は過度な擁護も同情もいらないよね――。

漱石の「坊っちゃん」のようにはいかない

 彼の事件ニュースで話題になっていた“別アングル写真”を私は見ていないが、それがどうしたという感じがする。いま彼の事件を取り上げれば、ファンでなくてもネットユーザーたちはいちいち読んでくれて、広告収入が上がるだろう、という醜悪さである。

 それより最初にネット上に拡散していた、“彼(?)が映った動画”は、私は見たのだ。実に短い尺で、9秒ほど。
 黒い帽子を被り、黒いサングラスをかけ、白いマスクをした草間さんらしき人物が、ビルの出入口付近でキョロっと路上を眺める。首から肩あたりまで白いタオルもしくは白いシャツをかけ、その下は裸。丸出し。白いソックスを穿いてはいるが、靴は履いていない。彼がキョロっと路上を眺めているわずかな間、ピュービックヘア(陰毛)がぼんやりと映ってしまっている。

 この動画が路上でバッチリ撮られてしまった理由を考えると、単に彼が露出狂で、たまたま通りかかった人が撮影した感じではない気がするが、全体の状況や事実関係まではよくわからない。
 そうであっても、やはり公然わいせつは免れない行為であり、警察沙汰の事件になり、あのような泣きじゃくりの謝罪の一場に至った――ということなのだろう。
 プロの人なら、ギャラを取って裸やヘアを撮らせるべきものであり、タレントはそれで飯も食っていける。それなのに、よりによってプライベートで公衆で――というのは情けない。タレントとしてのプロ意識の欠如は、普段の慢心からくるものだ。それは大いに自覚すべきである。だから「お坊っちゃま気質」の男のコは突き放す態度が必要だ――というのが、私の持論である。

お坊っちゃまBとC

ネットでは嘘つきが多いです

 何年か前、私の知り合いの男のコはまだ大学生であった。その頃彼は演劇をやっていて、卒業後、すっかり「働きたくない症候群」に陥り、精神的になかなか立ち直れず、どうにかこうにか細々と働き始めたのだけれど、随分と心配したものだ。カネが無くて、諸々の事柄に関して頻々と愚痴をこぼす日々。そういうのを、SNSの日記で読んだから。私も何か力になってあげられないかと考えたわけだ。
 その後、彼は職が定まらないまま、結婚。おい、大丈夫か? と思った。
 ところが、あれほどカネが無い、カネが無いといっていたわりには、海外への新婚旅行(JALパックでハネムーン?)でばっちりツアーで楽しんでいたり、クルーズ客船の中でバシバシ写真を撮っていたり、国内のテーマパークとやらで夫婦睦まじく遊びまくってる姿が、美しい高精細のカラー画像でウェブ日記にアップされていたりして、私は本当に呆気にとられたのだった。このとき反省したのは彼らではなく、私のほう。

 カネが無いというのは、ウソだった?

 考えてみれば、彼もやはり「お坊っちゃま気質」で、自分で苦労を背負い込んでいるかのような節は、日頃の慢心からくるものである以上に、ネットで「困った人・悩んでいる人」を演じていれば人が集まる――というくらいのことは考えているのだろう。尤もいまだに、友人知人の忠告は顧みず、転職先がうまく見つからずに困ってるよぉ、カネが果ててきて悲しいよぉ――とほざいている。はい、突き放そう。見捨てよう。

複数の猥褻事案っていったいなんだ?

 そもそも、そういう人たちに対しては、なんの心配も同情もいらないのだ。
 お坊っちゃまには、お坊っちゃまをたいそう可愛がってくれるタニマチ(ひいき筋や後援者のこと)がいる。夏目漱石の『坊っちゃん』を読めばいい。

 実のところ、他力主義のお坊っちゃまたちは、大して苦労などしていないのに、苦労苦労、辛い辛いと愚痴ってるだけであって、それがタニマチをできるだけ多く引き込む習性となってしまっている。根っからの体質といってもいい。
 ああ、かわいそうねかわいそうねと思って、あれやこれやと支援しちゃったりするわけだけれど、はっきりいって彼らは、恩を仇で返すのが当たり前。ちっとも反省しないし、またすぐ苦労苦労、辛い辛いとほざき始めるのだから、放っておけばいいだけのこと。とくにネット上のウェブ日記などで綴られる、男のコたちの苦労話のオンパレード。そのファンタジー。ほんとに嘘っぱちのファンタジアだから、一切見なくてもいいのです。

 そうそう、ところで。

 バグる世界で不思議なのは、同じ「お坊っちゃま気質」の男のコが起こしたスキャンダルでも、こちらはめっぽう支援者ががっちりガードを固めていて、逆に不自然で哀れ――という話。国分太一さんの「複数の猥褻事案」である。
 こちらの件、皆さんのほうがよくご存知だろうから、詳細を書かないことにするが、とにかくその「複数の猥褻事案」の内容がまるでわからないのだ。伝わってこない。

 日テレさん、どんだけガード固めてるんですか。

 とはいったって、もうそんな男のコなんていえる歳の方ではないし、ご立派だし、されど芸能界の重鎮というわけでもない。奇妙な立ち位置の方。でも何か、優れていて抜きん出ていて、国分さんのような愛されキャラの人は、タニマチが岩盤なのである。
 残念ながら、私はそういう人に何ら愛情を感じません。

お子様ランチ敬愛

 ちなみに、「お坊っちゃま気質」の要諦は、何か?

 実に簡単なこと。自分自身がおこちゃまだから、他人は可愛がらないし、他人の破茶滅茶にも寛容ではないし、まして自分の子どもの面倒なんて本質的にみない人。だって、自分がおこちゃまだから。自分をかわいがってくれる人がいっぱいいれば、それでいいのさ――。

 幼少の頃、レストランでいただいた「お子様ランチ」って、美味しいと思った方、いますか?
 私は全然ダメなほうだった。ケチャップたっぷりの、オムライスの盛りの頂でふんぞり返ってる日本の国旗がアホらしくてバカみたいで、おまえそこ、二百三高地かよって。…それはウソですが、ともかく、ふんぞり返ってる国旗なんて、左手の人差指と親指でデコピーンってやって飛ばしてしまった。ここで国旗なんて、関係ないでしょうと。そうして二度と「お子様ランチ」食えねえぞと思いながら、気分が爽快になったのである。

男性性の奇妙さ

 でもなんで、こんなに「お子様ランチ」が美味しい美味しいと食べられる「お坊っちゃま気質」の男のコが周囲でもてはやされるのかを考えると、色々と面白い想像が浮かんでくるのだった。
 いや、お坊っちゃまっていうことではなく、男性性の奇妙さというべきか、そういうものをもともと含有している、不思議な生きものなのではないかと思うのだ。

 まず、そういう男性性ってなんだろうということを、こまかく勉強してみたらどうかと思って、ずいぶん前から関係関連の本を揃え、それなりに思考し、ある一つのベクトルではじき出されたのが、例の「人新世のパンツ論」だったりするのだけれど、ともかくこのテーマはもっと膨らましていきたいのである。

 もしかするとそれは、〈泣くな、男よ〉の古い思考や観念でぶら下がるのではなく、男だって泣いてみたら、案外おもしろ人生が築けるかも? と仮説を立ててみたところで、あの事件だった。草間さんの路上モロ出し。
 いっそ、それでウエンウエーンと泣いてみようかしら? ボク、かわゆい男のコだから――と考えたのかどうかは知らないが、だから男のコはああなるのだね、という話。
 これ、決してあの人をバカにしているわけではなく、客観的にあれをとらえて、やっぱりそういう現代思想のカテゴリーは学んでおいたほうがいい、と思うのだ。それは結局、この世の最後の悪あがき的な結論に至るかもしれないのだが、頑張ってみたい。それで女性がどう思うかまでは、読み取れないが――。

 ともあれ、“草間の影”――の後日談がないことを祈る次第である。

やっぱり福原愛さんと江宏傑さん

 ところで、この不定期企画で綴っている「バグる世界」の本質は、「すぐに消えていくこと」でもある。

 一般論としていえるかどうかはわからないが、少なくとも私自身が、ほとんど無意識に近い形で、あれやこれやの情報をスクショするという行為自体、可憐にその情報を欲していた何か――が、そこにあるからなのである。
 大抵の場合、そのスクショした人物なりモノなりは、2年もすれば消えていくものだ。経験的にそうである。にもかからず、福原愛さんと江宏傑さんのトピックは、もはやニュースソースとしてアンティークに近いものと思われていたが、なんとまた愛ちゃんが頑張って(?)、話題を提供してくれていたのだった。こちらもなんだか、心が和む。

 愛ちゃんたちのケースはたぶん特例であって、私が「バグる世界」で取り上げてきた方々の、そのスキャンダルなり悲しみなり怒りなりは、2年もすれば完全に消えて忘れられてしまうか、そもそも存在が表舞台からいなくなってしまうかどちらかなのだ。
 ゆえに、私はスクショする。そしてなんとかして取り上げる。彼らの痕跡。バグる世界の痕跡。それを残しておかないと、世界中のみんなが裕福で円満で、何の混乱もなく、何の問題も抱えず、平和に暮らしているだろうとどこかの愚者が勘違い、又は誤動作を起こしかねないからだ。

 したがって、バグはログする。それが経験主義者の鉄則なのである。大江健三郎先生ならそれを、ユマニストの「悪しき良識」と評してくれるであろう。

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