朝井リョウの当事者から逃れられないこと

【『週刊文春』2026年8月27日号「当事者として書くということ」】

 私自身の10代を振り返ると、なんだかなあと思ってしまう事柄がいくつも思い出される。全般として、なんの脈略もなくゆるゆるとした学生生活を送ってしまったために、何かしらの“当事者意識”が希薄な、事象との結びつきが直接的ではない距離感で対処してきた。そのことを深く恥じる。
 若者が、若者特有に感じる“生存の息苦しさ”なんていうものも、私は間接的に凌いできた感じがするし、真に迫る思いで友達どうしで受け止めた経験がない。はぐらかしたり、空々しく冷笑したり。内面の弱さの課題を、しっかりと正面から直視するということがなかったのだ。
 あれもこれも「自分事ではない」ような心持ちであったために、学力としても人間性としても、問題点の解決は先延ばしされ、多くの大事な分岐点を見失ってきたように思う。

 なまじ、生き永らえてきただけのことはある。これはもう皮肉というしかない。
 皮肉ついでに述べると、自身の「幸福」に飢え、「悪行」の滴りをとらえる眼力だけは、肝を据えて鋭敏な人間となった。

 稀代の作家・朝井リョウさんもまた、私と同根で、「幸福」に飢え、悪態の社会をとらえる眼力がめっぽう鋭い。

朝井リョウの「私の読書日記」

 『週刊文春』(文藝春秋)2026年8月27日号の「私の読書日記」は、まわりまわって朝井リョウさんの番。著名な6人(酒井順子、鹿島茂、瀬戸健、吉川浩満、橋本愛、朝井リョウ)による交代執筆形式の連載コラム。
 今号の標題は、「当事者として書くということ」。ちなみに、私が10代の“当事者意識”の希薄さを省みたのは、その標題があったからだ。
 朝井さんが「私の読書日記」の中で核心に触れていたのは、自ら当事者としての観念がありながらも、フィクション小説を書くということに、これまでずっと、悩ましいものや後ろめたいものを抱いてきたこと――なのであった。

 読書日記の書評で挙げられていたのは以下の2冊。

 上村裕香著『海の底に雨は降らない』(幻冬舎)
 小松原織香著『当事者は嘘をつく』(筑摩書房)

上村裕香さんのヤングケアラー小説

 上村さんの『海の底に雨は降らない』の小説は、母親の首吊り自殺を幇助した20歳の女性が主人公で、執行猶予付きの有罪判決を受けた後、出所して介護施設で働くようになり、その後、日比谷ヒビという作家と出会う…という物語であり、そのヒビから女性は、「自らの体験を小説に書くこと」を勧められるのだ。

 上村さんはこの本の発売前、自身のnoteに「当事者として書く」とはどういうことか、といった文章を投稿し、朝井さんはそれを読んだのだった。
 難病の母親を介護するストーリーの小説『救われてんじゃねえよ』(新潮社)で作家デビューした彼女は、ヤングケアラーの当事者でもありながら、ある種の後ろめたさも抱える。このように述べる。

《自分の経験を、自分自身の言葉で語り直すこと。それによって、人は他人から与えられた物語ではなく、自分自身の物語を生き直していくことができるのではないか》

 まさに当事者として、自分の心と体で体験してきたことを、他人から与えられたことばで紡ぐのではなく、自ら吐き出すことばで紡ぐ。フィクション小説であっても、自分自身の物語を生き直すことができるのではないかと。
 そうした思いの投射が、どうやら『海の底に雨は降らない』の登場人物のヒビに語らせている部分があって、朝井さんはそこに自己省察の着眼点を見いだすのだった。

【なんの脈略もありませんが、『ダ・ヴィンチ』2025年10月号の朝井リョウさん】

他人が思い描く当事者ではない当事者

当事者もの小説を書くことは、自分で自分を物語化することであり、同時に、その作品と併せて他者に自分を物語化されるということでもある。この、眼差す視点を奪われるような感覚が、今の私には受け入れ難い。そのため最近は、特にインタビューを受ける際、小説の主題とどう距離を取るか(または、距離があるように見せられるか)ということばかり考えている気がする。そしてそのたび、何でこんなことをしているんだろう、とウンザリしてしまうのだ。

朝井リョウ「当事者として書くということ」より引用

 少なくとも私は、朝井さんの回の「私の読書日記」を3年ほど読み続けてきた中で、あらゆるテーマにおいて自身の小説作品との兼ね合いであるとか、重なる部分について朝井さんが語ってきたのを知っているが、何かしらの「当事者である」ということを匂わせた表明は一切なかったのではないか。

 ここでもやはり、当事者もの小説を書くことは自分を物語化することだ――と述べ、《今の私には受け入れ難い》としていることで、当事者もの小説を書いたことは“ない”ようなニュアンスになっている。果たして本当にそうなのか。
 《小説の主題とどう距離を取るか》で苦心している様子が窺えても、ことばをすり替えているのかすり替えていないのか、判然としない。朝井さんの「当事者として書く」真意は、ここでは見当たらない。

ありのままの当事者とはなにか

 先の『海の底に雨は降らない』で著者は随所にギャグ要素を差し入れ、著者が主題と一定の距離をおいているのではないか、ということに朝井さんはふれ、こう述べる。

私はなんとなく、地肌にぴったりと接着した主題を一通りの解釈しか挟めない距離感で書いてしまったとき、小説家として何かが終わるような気がしている。そして、そんな瞬間をいつか自ら選び取る予感すらある。

朝井リョウ「当事者として書くということ」より引用

 たいへん重要なことを述べつつ、その内容は謎に満ちている。ヘタをすれば空疎な表明とも受け取られかねない。

 つまり当事者である「私」が、自分でしか用意できない何かを開示し、まさにそれはそのとおりだとしか思えないような小説を書いたとき、「何かが終わる」というのだ。フィクション小説ではなく、ノンフィクションの自伝ではないかと読者に悟られたとき、「何かが終わる」。一体何が、終わるというのか。
 しかしその手順を踏むしかない小説――あからさまな自伝的小説――を書くことを、自分はいつか選んでしまうのではないか、選ぶ時が来るのではないか、という。私は何となく、それは何を指しているのか、わかるような気がする。いや、朝井ファンの読者なら、既に感じていることではないだろうか。

【同じく『ダ・ヴィンチ』の朝井リョウさん。一緒に写っているのは若林正恭さん】

 当事者が書く自伝的小説で、作者自らが最も辛辣な思いにいたるのは、読者が書き手の真意を知ったと思い込み、それを物語化し、慮られたり、偏愛されることだ――ということに朝井さんも、上村さんも、そして『当事者は嘘をつく』の著者・小松原さんも同意する。上村さんのデビュー作『救われてんじゃねえよ』もそうした傾向の反駁が見受けられる。
 だから朝井さんは、小松原さんの著書の中のことばに鋭く反応したのだった。その手の偏愛を、《けっ飛ばさねばならない》

 けっ飛ばさねばならない――。

 そのことばになぜ驚かされたのかという、朝井さんが表明した“長い二文”を解読するのはちょっと難しい。こんな二文である。

自身に密接する主題について小説を書くとき、言葉にせずとも抱いていた感情を言い当てられた気がしたからだ。そのようなとき、読者にとって私は主題に対して傍観者・観察者であり、それゆえ【けっ飛ばさねばならない】気持ちで書いた文章は、善意への安易な揶揄として受け止められがちだ。時々、これはただの意地悪心で書いたものではないと発信したくなるときもあるが、フィクションとして世に発表した以上、解釈の余地を挟めるような発信には抵抗があり、私はよく一人でがんじがらめになる。

朝井リョウ「当事者として書くということ」より引用

 がんじがらめになるのは《身から出た錆》だとも述べられていて、今回の「当事者として書くということ」の朝井さんの表明は、そのことばに尽きる感がある。

書くことは常に自己殺傷の痛みを伴う

 私はこれまで、朝井さんの小説を読んできて、その中で書かれている部分に関しては、まさに主題と一定の距離をおきながら、当事者であることをほのめかすこともなく、関わり合い(主題に関わっていることで書き手も読者も愛おしさが加わること)を“けっ飛ばし”ながら、登場人物の言動を右往左往と展開させていっているように感じていた。最後には読者に思わぬ落とし穴を用意していることがたびたびあった。
 いっぽうで私は、主題を通じて朝井さんが何らかの当事者ではないのかという疑念を抱きつつ、どこでそれがほぼほぼ明らかになるかということを探りながら読むことにも、ごく自然に注力してきた。善意に満ちていない事柄にこそ、朝井さんが心情として暗に加わっていることを腹で思いながら、おそらくここはがんじがらめになって書いたのであろう、などといったことも想像しながら読んだりした。
 それは《身から出た錆》というよりは、むしろ作家が必然的に到達もしくは通過していく経路であり、書き手が言葉を紡いでいっている必死な形相の裏側を、素手でもぎ取ることができる、いわば読者が味わえる官能の瞬間でもあるのだ。

 人間としての臭みを、そのまま醜くえげつない表現で伝える小説を、朝井さんは“受け入れ難く”書かない。登場人物が嘘をつく。だがその嘘は、何らかの善意的な意志を持ち、読者があとで〈ああそういうことだったのか〉と納得がいく嘘であったりする。それが結局、今のところの朝井さんの文体になっている。
 「書かれていないもの」のほうにこそ、当事者としての真意が凍結したままになっているのがわかる。今後はどうするのか――。フィクションの壁を越えてくる第二の朝井さんの作家時代が、それを溶かしてこれからあるのかもしれないが、ないかもしれない。

 “当事者意識”を誤魔化しすり抜けて生きてきた私には、痛いほどその気持がよくわかる。自分が「幸福でありたい」と思うことと、「悪人であるかもしれない怖れ」の念をどこかに眠らせたままにしている自分には、迫られるべきものがある。
 書かなくてよいと思う書き手には、悪行がつきまとい、主題の当事者であることをほぼ緊密に書き巡らしてしまった書き手には、善を失い幸福を遠ざける未来がある、ように思う。
 朝井リョウはいまそんな重大なことを述べたのだ――と、私はそれを“公式見解”としての趣きで、掬い取った。

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました