
前回に続き、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)の話題。
2026年1月26日付東京新聞朝刊に、こんな記事が掲載された。「鳥取県立美術館 ウォーホル代表作の保有継続へ」。「『3億円の箱』5割超『肯定』」。
「ブリロの箱」が鳥取にやってきた
倉吉市の鳥取県立美術館は、2025年3月に開館。美術館の目玉として、県は2022年秋、ウォーホル作品の「ブリロの箱」(“Brillo Boxes”)を1点約6,800万円、死後制作の4点を各約5,500万円で購入。
しかし、計約3億円を投じた美術品の購入に、批判的な声が上がった。そこで鳥取県の平井信治知事は、昨年3月の開館から11月までに、来館者に向けてアンケートを実施した。
その結果、肯定的な意見で「保有・展示を続けてほしい」が35.6%、「もっと説明を充実させて議論が巻き起こるようにしてほしい」が21.7%。やや中立的な意見として「疑問を感じたので保有を続けるか検討してほしい」が16.7%、「その他」(無回答を含む)が26%。
肯定的な意見が57.3%を占め、これにより昨年12月の県議会で、作品の「保有継続」の方針を表明。ちなみに、昨年末までの来館者数は、当初の年間目標の20万人を大きく上回り、28万人を超えたという。
とはいえ、美術史家で神戸大学の宮下規久朗教授は、今度のアンケート結果により「保有継続」となって来館者が増えたことは良かったとしながらも、《アンケートに委ねる手法は、作品を選ぶ美術館の独立性が脅かされてしまう。反対されるたびに同様の手法を採れば、美術館を有する他の自治体にも悪影響が及ぶ》と意見を述べた。
これはつまり、美術館が主体的に、どの美術品をどんな目的で取得したのか、それをどう管理し、どう活用していくのか、美術館を運営する専門的な組織や学芸員の知識・知性が問われている懸案事項ではないか。また、それぞれの地方自治体がミュージアムそのものを運営していく意義についても、洗い直す必要性を感じた記事である。

それはまさにベニヤでつくった箱
誰でも簡単につくれる、ベニヤの箱。これが5千万円以上するなんて――と考えてしまう人は、「芸術への理解が乏しい」と、批判することはさほど難しくはない。だが批判する側も、本当に芸術とはなにか、理解しているだろうか。
ともかく先述の新聞記事を見て読んで、鳥取県立美術館がウォーホルのあの「ブリロの箱」を所有し、そこで展示されていることを知り驚いた。国内の美術館で、本物のウォーホル作品が観られるなんて、羨ましい限りではないか、と私は思うのだ。
あらためて紹介すると、そのウォーホル作品は、「Brillo Soap Pads Box」(1964年)。通称、“Brillo Boxes”。日本語でいうと、「ブリロの箱」。
時は1964年、NYのステーブル画廊には天井までびっしりと箱が積まれていた。一見、洗剤やケチャップ、スープにコーンフレークといった商品輸送用の段ボール。実はベニヤ板で職人に作らせた箱に、ペイントとシルクスクリーンを施して本物を忠実に再現した“作品”だ。
『CASA BRUTUS』No.168 2014年3月号より引用
アメリカで販売されていた「ブリロ」という商品の箱を模したウォーホルの作品。デザイン自体をウォーホルが創作したわけではない。
そもそも「ブリロ」ってどんな商品?
「ブリロ」は、スチールウール製の食器洗いパッド。そこにあらかじめ洗剤が含まれていて、鍋やフライパンなどのしつこい汚れをきれいに落としてくれる。食器洗いなら、もうこの「ブリロ」じゃなきゃダメ、っていう人はけっこう多い。すごく評判の良い商品。もちろん今も販売されている。日本でもネット通販ならすぐに買える。
1917年にブリロ・マニュファクチャリング社が生産販売。はじめは、スチールウールと洗剤が別個になって箱に入っていた。それを別個じゃなくてスチールウールに洗剤を含ませたタイプのものに切り替えたのは、1930年から。これがもう大ヒット商品となった。
そういう「ブリロ」の、商品輸送用段ボール箱を、ベニヤ板で模して作品にしたのがウォーホル。それが1964年のこと。これの正真正銘本物の作品が、いま国内の鳥取県立美術館で観られる――ということになるわけだけれど、“3億円の箱”の意味がおわかりいただけただろうか。

ウォーホルが追い求めた芸術とはなにか
例えば、1968年にストックホルム近代美術館の回顧展で、「ブリロの箱」が大量に高く積み上げられ、その前でサングラスをかけたウォーホルが“ニヒルに佇んでいる(カッコつけている)写真”――を、私は見たりするが、その時のウォーホルはすごくかっこいい。けれども、後ろに積まれた「ブリロの箱」もまた、なんというのかかなり印象的で、いわば大都市の“高層マンション”を想像させる、ひんやりとシャープな風情で荘厳なのだ。
そうした写真を見ると、「ブリロ」というのは、第二次世界大戦後のアメリカの消費文化、又は、人が汗水流して働いて大量生産された商品の繁栄ぶりと恐ろしくも暗い後ろめたさが募って、どこか物悲しい。それこそ、何処何処のミュージアムで聡明な画家の画を観て感動するのと同じくらいに、私たちはどこも彼処も同じ光景を目にし、同じ商品物を買い、同じような生活様式の中で消費している、という当て所ない“文化事業”の生き血を吸って、まさしく“感動”しながら生きていることに、まざまざと恐怖を覚えるのである。
しかしながら、そのこと自体も、ある意味において「皮肉な芸術」なのではないかと、ウォーホルは問うた。
日々の生活の中で、繰り返し繰り返し同じものを見て触り、使っている、あるいは捨て、また同じものを買って使ったりすることも、慣習のうちの大いなる皮肉であればこその、芸術的ふるまいなのではないかと、ウォーホルの作品は観る者に訴えかける。
いや、それではこそばゆい。
もっと単純に、そうした作品を、楽しい営みに転換しようとしていただけなのかもしれない。人々の幸福の度合いを、観ることで測ることができるという点で、面白い。何が自分を楽しくさせているのか、何が自分をこんなに悲しくさせているのかを、ウォーホル作品を通じて発見できる試みなのである。
かつてウォーホルは、途方もないくらいに、フェイマスなものに寄り関わってきた。有名な人物に、有名な物に、有名な事象に、関心を抱いてきた。そして自らも、そこにどっぷりと浸かっていくことで、いったい何の意味があるのだろうかと俯瞰する振る舞いがあった。
だから、アンディ・ウォーホルの面白さは、そこなのだ。
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