石内都『さわる』における身体的男性性の発見

【写真家・石内都さんの男性ヌード写真集『さわる』(新潮社)】

 学生時代に学んだ言語表現(国語)が、その領域を阻まれて思考停止に陥った経験というものがある。私の若い頃の話である。

 それはつまり、自ら秘匿としていた性の領域に、外面上の身体表現のおおらかな情報が入り込んできた時、ハレーションを起こすのだった。それを見た瞬間のパッションを掴むことも言語化することもできず、ただうろたえ、さらなる秘匿の闇に沈んでいくだけであった。
 私にとってその原初的体験の第一が、宮沢りえ&篠山紀信の写真集『Santa Fe』(1991年)であり、第二が、テレビのワイドショーで知った1993年の『Yellows 2.0 Tokyo 1993』だったのである。

 写真家・五味彬氏が制作したヌード写真集“YELLOWS”シリーズは、全裸の女性たちの直立不動の姿がデジタルカメラで記録されるという、人体標本的カタログ写真集であり、当時、その趣旨とヘアヌードのビジュアルが大いに話題を呼んだ。
 『Yellows 2.0 Tokyo 1993』に関しては、雑誌等によるわずかな参照画像を見て、私も興奮した。被写体モデルとなっている彼女たちは皆、ピュービックヘアを露骨に晒していたからだ。
 20代になったばかりの私は、五味氏の写真集を買う勇気もお金も無く、ただただ淡い幻想と、性欲を掻き立てる期待感だけが空を切り裂いたのだった。

【五味氏の“YELLOWS”とは真逆の男性ヌード写真集『さわる』(撮影・石内都)】

石内都さんの写真集『さわる』

 身体への幻想は、慌ただしく焦燥感を募らせた。見えざるヒトの身体の正体がつかめない…。
 その頃の演劇活動が、身体表現のなんたるかを主体的に謎めかせてしまってもいた。現実的には、知りたいことの核心にふれることはできなかったのである。
 ちょうどその頃、私は愛しき人に接し、もしかすると近い将来、この人と暮らし、私の子をこの人は産むのではないか――という切迫した気持ちを抱くようになった。ただちに身体と性への希求を満たすことが不可欠となり、自らの身体と他者のそれとが結ぶ、性の領域を含めた身体表現の確固たる探査が必要になった。
 偶然ながらその発見は、近くおとずれた。

 写真家・石内都さんのモノクローム写真集『さわる』(新潮社/1995年10月刊)が、まさに格好の源泉となった。

 それは、大人の男性たちの、身体クローズアップ写真だった。
 しかし、多くのヌード写真集で見られるような、身体の造形美を表現しているのではなかった。石内さんは身体への接写撮影を果敢に試みられ、ヒトという動物の裸の姿は、陰影に帯びた肉質と体毛によって形作られている――という鮮やかな再発見をいざなうものであった。

 ゆえに、ヒトの身体とは――。
 モノクローム写真であることで、よりいっそうその表層の陰影が印象強くなる。幅広い年齢においての成人男性の身体は、肌の濃淡や細部の質感、体毛の濃さや生え具合、ところどころに見えるシミやアザのようなもの、それらは千差万別であり、その人の固有の形状であることを示す。そういった肉体的な形状は、その人の人格的な性質をも帯びるかのようである。
 そもそも他人の身体の仔細を観察することなど、日常的にはほとんど不可能に近いが、石内さんの写真集によって、それらが露骨にクローズアップされ、まざまざと眺めることができるのだ。
 石内さんは、写真家として意識的な「探求の人」なのかもしれない。

男性性の発見

 私はこの写真集を眺めることによって、あらゆる意味合いの男性性(マスキュリニティ)を、身体的表象の中から発見していくことになる。むろんそれは、特有のヘゲモニーを指し示すものではない。

 それぞれの写真には、イニシャルが記してある。一部、男性モデルたちの顔写真が掲載されていて、そこにはローマ字表記の氏名、生年が記してあった。
 つまり、身体の接写写真のイニシャルと、その肖像写真の氏名を照らし合わせれば、どの写真が誰の身体であるかがわかる。ただし、収められているカットは、顔写真に併せて順列に並んでいるわけではなく、あくまでカットがバラバラに掲載されているので、鑑賞者が積極的にその符号の答え合わせをしなければ、身体と顔とを一致させることはできない。

 石内さんは、なぜこのような男性身体のクローズアップ写真を撮影し、作品化したのだろうか。
 別の本、『キズアト』(日本文教出版)には、まずこのような記述がある。

《写真家になってから、潜在的なある種の偏執性がしっかり表に出てしまったようである。こと写真になると変態性欲風活力がムラムラと湧き上がり、そのエネルギーが写真を撮る原動力になっている》

 何についてそう述べているかというと、《男のシリーズ》だという。

《何よりも問題なのは性器なのだ。女の性器は構造上、意図しないと見えない。男はパンツを脱ぐだけで眼の前にある。そのちがいはとても大きい》

 そのように述べたうえで、『さわる』で編輯されたような《男達の裸体》を撮ることへの真意が、以下のように述べられている。

《私は男を三年間ほど撮ったので大勢の男達の裸体を見ている。あたり前のことだけど本当にひとりひとり個々人、顔がちがうのと同じに身体もちがう。見慣れないものを見るのは新鮮なおどろきと心地よい興奮をともなう》

 石内さんは、男の裸体を撮ることで、《写真の愉悦を感じる》のだという――。男の裸体を見たから興奮するのではない。《男達の裸体》を写真に収めたことで興奮する。それが彼女の愉悦の意味である。

 彼女のことばは、より神格化して感じられる。端的な《男達の裸体》を写真に収めることで、身体上の男性性の極みを彼女は発見していく。
 それはいったい何か。すなわち、身体の表層の肌理(きめ)である。

キズについて

 肌理の最も男性性を表すものといえば、体毛とキズであろう。
 キズは「傷」。「疵」とも書く。

からだやものの表面を切ったり突いたりして、つけたあと。

『三省堂国語辞典』第八版より引用

 また、とくに「疵」は、心に受けた痛手、欠点、失敗や不名誉などをあらわす。瑕疵(かし)という語もある。

 人間であれば、いや動物であれば、身体が傷つくことは必然で、生きているからこそ傷がつく。とくに人間の身体は体毛が極端に少なく、傷がつきやすく残りやすい。男でも女でもそれは変わりない。
 しかし、身体が傷つくことと同時に、心に受けた痛手の「疵」は、男と女とでは違うのではないだろうか。

 キズの修復力の違いともいえる。女は身体上の「傷」を残したがらない。美観を損ねるからだ。残したくないという強烈な意思が作動し、積極的にケアする。したがって、経験的にだんだんと無茶な行動をしなくなる。

 ところが男は、身体上の「傷」が残ることに、あまり切実な嫌悪感を抱かなかった。少なくとも、『さわる』が出版された90年代の男性性の観点では――。だから行動を抑制しないのだ。おのずと身体に「傷」がつきやすくなる。しかもほとんどケアしたりしないので、残りやすい。
 身体に残った「傷」の数は、男と女とではそういったことから差が生じるのではないか。心に受けた「疵」の数もまた違ってくるはずである。
 肌理と「傷」は表裏一体のもので、石内さんが撮影した《男達の裸体》には、それこそ無数のキズやシミを見ることができる。

 キズの痕跡は、なんとなく「死の宣告の予兆」を表しているかのようである。
 男性ヌードの写真には、よく華がないといわれるが、「死の宣告の予兆」がそれを邪魔しているからかもしれない。
 若年の男性のヌードには、かろうじて華が感じられる。しかし、三十路を過ぎるとたちまちその華やかさは消え、身体の「傷」は増えるいっぽうであり、ゆえに、「死の宣告の予兆」だけが感じられる。
 いってみれば男性の裸は、無数のキズの明細記録なのである。それを心の「疵」と併せて考えれば、まさにそれが、死を予感させる刹那の男性性の本質なのではないかと、私は思うのだ。

 しかし近年、男性性の趣旨が微妙に変わり、男でも美観を大事にする傾向が生まれた。「傷」は男にとっても邪悪なものとなり、嫌悪される時代となったのだ。
 『さわる』の頃の男性の裸は、もう今では過去の身体の様相といわざるを得ない。

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