
たいへん拙いもので、それを紹介するには憚りたい気持ちはあるのだが、過去に私自身がカメラを使って撮影した映像作品が、所有するハードディスクの中にいくつか残されている。とてもそれらのほとんどをお見せすることはできない。権利の問題、名義の不都合。そうした理由以前に、何の解釈もいらぬほど創作として稚拙だからである。
ただ、その中でもごく一部、今になって気になる資料が見つかった。映像スケッチ『雨』に関する資料であった。2010年に手掛けた映像作品で、その解説となるテクストが残されていた。まことに残念ながら、映像のデータは今のところ見つかっていない――。おそらく今後探してもどこにも出てこないのではないか。

以下は、そのテクストである。
これをここに記して、一体何の意味があるというのだろうか。
しかし、その文脈の持つ冷徹なまなざしの復縁を、私はどこかの機会に設けたいと願う。それがそっくりそのまま――というわけにはいかないであろう。何らかの形で、それが実現できないか模索したいところなのだ。
講釈はこれくらいにして、以下、当時のテクストを記しておく。
映像スケッチ『雨』草稿
デジタルシネマ/ショートフィルム
2010年映像スケッチ『雨』
1分22秒
撮影・監督・編集:Utaro
Copyright ©2010 Utaro FILM All Rights Reserved.
解説
今年の春は異常気象らしく、関東地方では雨の日が頗る多かった。せっかくの休日のアウトドアのプランが中止になる度に、私は雨を恨んだりした。
だが不思議なことに、映画の中の雨は、私は大好きである。無数の雨粒が地上のすべてのものを濡らし、雨の中を走る人々の曇った表情というのは、ある意味、その人の真の心が浮き彫りになっている瞬間かもしれない。表情として見応えがある。また雨の音は、千差万別の表現に富んでいる。生き物が生来耳にしてきた自然の音であり、それは内なる鼓動のリズムに対する外野のリズムの呼応である。
映像スケッチ『雨』は即興によって自ら撮影し、録音し、編集した。つい数日前、朝風呂に入っていると雨の音が聞こえてきた。ああそうだ、雨を撮ろうと…。風呂から上がった十数分後には、既にカメラは赤いタリーランプを灯して作動していた。
土砂降りの雨でも撮れば、それなりの臨場感は再現できる。が、ごくありふれた量の雨の光景を撮るというのは、表現として難しい。何故なら、被写体である雨は無色透明で微細だからだ。小雨量の雨はフレームの中であまり動きを見せてくれない。
ここでの実験的な主題は、映画としての――ある種のDramaとしての――「雨」である。それはつまり雨の形に意味があるのではなく、何気なしに人が外を「覗く」と、その「見える範囲の中」で「雨が見える、降っている」という認識(視覚と聴覚)の展開の仕方の問題である。
映画は時間軸に沿って「見た」「見ている」という観念の集合であるから、劇としては「雨」ではなく、「雨を見た」「雨を見ている」なのだ。
さて、私は自分の部屋から外を覗いた。雨が降っている。残念ながら私の部屋からは、雄大な山であるとか、広大な海といった美しい光景が見えるわけではない。小面積の畑の向こうに、工場の外壁に沿って伸びた小道があるだけだ。早朝だから人影はない。このつまらないありふれた場所にも、雨が降っている。私は敢えて、意図的にフレーミングを狭くし、人がそれを見ていると思わせる構図を決めた。露出も暗めに調節した。「雨」が主題でありながら、「私は見ている」という主題にもなる。さて何を見ているか。これが私の映画としての表現であり考え方である。
(2010年5月)
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