
以前、宮藤官九郎さん演出の舞台の話をした。東京・渋谷PARCO劇場の「40周年記念公演」という括りに、個人的には感慨深いものがあった(「序章・永山絢斗」)。
最近のPARCO劇場の公演で、私がパッカーンと脳髄の何かがほとばしるほど興味を抱いたのは、作・山本卓卓、演出・白井晃の『ジン・ロック・ライム』だった(3月10日~31日)。
舞台『ジン・ロック・ライム』
主演は髙木雄也、黒羽麻璃央、蓮佛美沙子、永田崇人、駒木根隆介、小日向星一、銀粉蝶。
正直いって、もっと早くこの舞台の情報を知っていれば、私は自分のスケジュールに組み入れ、チケットを買っておいただろうに――という思いが1点。
それから、なんといってもこの『ジン・ロック・ライム』は、ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen)の『ヘッダ・ガブラー』(“Hedda Gabler”。ヘッダ・ガーブレルとも)の翻案ものであり、上流階級の出の将軍の娘である貴婦人ヘッダ(妻)を主人公にした、退屈極まりない毎日からくる欲求不満、生きづらさを描いており、そもそも夫への愛情を寄附していない女の話。
これを現代の東京に置き換え、人気ロックミュージシャンのジン(髙木雄也)をヘッダに見立てて描いていた――という面白そうな構想に興味を抱いたのが2点目。
彼ジンには、献身的な妻ショウコ(蓮佛美沙子)がいる。芸能事務所の社長でもある。そうした関係の中、過去の恋人エート(黒羽麻璃央)が現れたり、ノンバイナリーのタレント・ホムラ(永田崇人)がエートと親しかったりとか、今日的な人間関係が交差する舞台だ。
『ジン・ロック・ライム』は、現代人の生きづらさを描く。かつてのヘッダは女性であった。しかも『ヘッダ・ガブラー』は、その時代の女性の生きづらさを反映し、今とは違う女性性がそこに内在するのだけれど、『ジン・ロック・ライム』は、社会的立場を男に転換することによって、男として生きづらいものの葛藤が軸として描かれるのであった。むろん、どちらにしてもそれらは関係性の一つの作用点に過ぎない。いかなる時代においても、最も肝心なのは、人間どうしの愛情なのである。

髙木雄也というオトコ
少し仔細的に舞台の話をしてしまったけれど、今回の趣意としてピックアップしたかったのは、ジン役を演じたHey! Say! JUMPの髙木雄也さんである。
ちょうど近頃、私は男性学とか“男らしさ”とはなんぞや? について個人的に言及していた(「朝井リョウの男性学にまつわる関心と文脈」参照)のだけれど、その線で一冊の雑誌にぶち当たり、髙木さんの象徴的な肉体美に出合い、一方で先述のPARCO劇場の線から、『ジン・ロック・ライム』の舞台が浮かび上がった――その主人公を演じたのが髙木さんだった――次第なのである。
はっきり申すと違和感を覚える人もいるかもしれないが、私は常々、Hey! Say! JUMPのメンバーである髙木さんは、そのメンバー内に限らず、もっと広く現代日本人男性の、“オトコクササ”の筆頭に掲げてもよろしいのではないかと思っていた。
ちなみに、私の子どもの頃の感覚としては、当時のスター芸能人の中で、最も“オトコクサイ”なあと思っていたのが、西城秀樹さんだった。あの“ギャランドゥ”がそれの象徴であった。
オトコクササとは?
しかるに、雑誌『an・an』(マガジンハウス)を見よ――。
2019.2.20(No.2139)の号。特集「オトコノカラダ」。この本の表紙に、髙木さんが登場する。
見よ――。まんべんなく小麦色に焼けたむき出しの裸体から、これでもかと“オトコクササ”が漂ってくるではないか。
そもそも感覚をことばにしていくのは、難しい。
「男っぽさ」という表現では生ぬるい。そんなのに当てはまる男性タレントはゴロゴロいる。あくまで髙木さんをいい表すには、“オトコクサイ”とまで表現しないと的を射ていない気がするのだ。
「男臭い」を辞典で調べると、
①衣服・持物・部屋などに男の体臭がある。②いかにも男らしい。男っぽい。
『広辞苑』(三省堂・第七版)より引用
だから、褒めことばとしては、使いづらい。「男っぽい」に加味して、明らかに男の体臭を感じさせるくらいの熱っぽさや、近い距離感をいい表す。
髙木さんの場合、それがエッセンシャルな特権的魅力ともなっている――ということを私はいいたかった。なぜそれを殊更強調しなければならないのかについても述べておく。



女性に求められる男性性の違和感
『an・an』の「オトコノカラダ」というテーマ(=メルクマール)は、読者のほとんどであろう女性にとっての異性、つまり男性(好きな男性)への内面や色気の在り方について望む関心は、男性身体の美容と理想像を表象化し、まさにその一例として、髙木さんを被写体にした「オトコノカラダ」を標本とし、それについて各々が思念したり考察したりする材料ともなっていた。ここまでは、『an・an』を評価できる。
まさにこの「オトコノカラダ」ということばに集約され、女性読者を毎度刺激してくるのだ。
私からいわせれば、オトコノ、カラダといったものはない。
しかし、ことばが身体性を背負った時、実際的な感覚を通り越して、目眩まし的な観念になっていくのが、『an・an』のそもそも存在意義であったりもする。その掲げるテーマの本意に、違和があろうがなかろうが、注目度としては高いものとなる。
男性性の課題の不可逆的な懸念でもあると思っているが、女性が理想とする男性性、それとは別に、男性自らが男性性を見つめ直すポリティカルな改正作業が、相殺して噛み合わない恐れがあるのだ。
それをどう克服するかが次なる課題であるが、別稿に譲りたいと思う。
いずれにせよ、いいたいのは、髙木さんの“オトコクササ”は、私の男性性の価値基準の、最も平均値に近いところにあるということ。先にノンバイナリーということばが出たが、性自認のフラットな位置づけなり、社会的な通念の反旗にも似たジェンダーの在り方に対し、まさに髙木さん自身が内面はもちろん表象としても揺れ動いているのではないかという、ある種の共振を感じるのである。
男性性には常に呪縛がつきまとう。
『an・an』のいかにも「オトコノカラダ」という表現は、女性の強権的な男性性理想への強迫観念であり、それはずっと過去から続いてきたものであった。
そうした時代を経て、いまという現代にイプセン翻案の『ジン・ロック・ライム』を演じた髙木さんは、私にとって男性性とはなんぞや? を常にクローズアップさせ、それが男性のアイデンティティとなりうるまでの多様な身体性の価値観を伴うものとして、世の男性諸君に知らしめてくれるであろう期待値の高さといった点で、好感の持てる俳優・タレントさんだと認めて已まないのである。
男性自らの、実際的な美観と美意識と加齢的内面の向上の調和は、女性が考えるアニメキャラ作りくらいの平易で簡単なものではないし、社会を通じて難しい課題であることは、知っていただきたいのだ。
関連記事

コメント