2009年の映像作品『忘れられた運動会』

 私がデジタルシネマ/ショートフィルムを創り始めたのは、2005年頃だったのではないか。前稿で述べたように、そのほとんどが稚拙なもので、“鑑賞に耐えられぬもの”として私はとらえている。
 しかしこれはなんとか、観てもらえるんじゃないか――という線のごく限られた作品群の一つに、この作品は挙げられると思う。
 2009年に創ったショートフィルム『忘れられた運動会』がそれである。

 これも当時の資料のテクストが残っていたので、以下、掲載しておく(※一部訂正して掲載)。
 幸いにしてというべきか、動画自体も残存していた。[青沼ペトロ公式YouTubeチャンネル]からご鑑賞いただきたい。

ショートフィルム『忘れられた運動会』

デジタルシネマ/ショートフィルム
2009年プロモーション作品『忘れられた運動会』
1分59秒
製作・脚本・監督・音楽・出演:Utaro
Copyright ©2009 Utaro FILM All Rights Reserved.

解説

 部屋はまるで、ウルトラマンを作った“円谷プロ”のガレージのようである。機材やら小道具やらがわんさかと配置されていて、足の踏む場がない。ここは私の部屋でありスタジオであり創作現場である。それは昔からそうであった。中学時代からそうであった。
 私は20代前半まで、某劇団で演劇活動をしていた。その前身は《劇団スパゲッティシアター》で、さらにその前は《モザイク団》に在籍していた。これらの時期は、私の専門学校時代とほぼリンクする。
 近年、某劇団ウェブサイトの中のテクストに、《モザイク団》の頃のエピソードが紹介され、私がそこにいた当時のことが書かれてあるのを知った。何はともあれ、懐かしい記憶と記録とが交錯する。

 閑話休題。
 創作の折、作品を作り出す第一歩として、頭に浮かんだことを付箋的に簡単なメモ書きを残すことから始まっていく。「プロモーションムービー」「ボードゲーム」――というふうに。
 私の場合、それは大抵早朝の仕事である。ともかく、頭に浮かんだアイデアを次々に付箋にしていく。この作品に関しては、そうして書き記した付箋の大半が、「ナレーション草稿」となり、それがそっくりそのまま、映像のプロット(筋)となった。
 次に私はコンティニュイティを描き出す。人には見せられないおおざっぱな画であるが、映像におけるカットの道筋がこれではだいたい把握できる。ちなみに、この作品では全体のカット数がおおよそ12であることがわかった。

 コンティニュイティには、強みと弱みというのがある。まず何より、これを描くことで、具体的な映像が絞り込まれ、「何を撮るか」が把握できる。そしてそのカットの構図、前後の構成などもおぼろげに浮かんでくる。ここでは、その軸となる被写体は「ボードゲーム」であり、付随して「氷の入ったコップ」や「運動会の写真」なども被写体となっている。
 コンティニュイティから見えてこないもの、見えづらいものもある。それは「光の陰影・加減」と「音」である。照明係がいれば、このコンテに照明の種類、個数や配置などを書き込んでいくだろう。音響係がいれば、効果音と音楽の挿入箇所を書き込んでいくだろう。
 では何をもとに? 誰の指示で?
 すべては「ナレーション草稿」(兼プロット)の中にヒントが隠されている。イマジネーションを働かせ、このナレーションから見えづらいそれらの情報を引き出す。思い浮かべる…。
 ここまでは制作の基礎である。
 ここから理解を付け加えていく作業こそが、私の考える、あるいは経験した「映画論」であり「映画」の姿となる。

 まず最初に明確にしておきたいのは、この「ナレーション草稿」がいかなる想像の産物であるかどうか、という点だ。
 “つー君”と“僕”がコーラを飲みながら、ボードゲームで遊び、“僕”が勝ち、“つー君”が約束手形を抱えて負けた、という話はフィクションである。しかし、それ以上のノンフィクションが、このナレーションの中にちりばめられている。
 “つー君”は実在した。小学校時代の友人である。そして彼は小学5年生の時に町を離れ、転校した。運動会の写真も、ほぼその頃の運動会を撮ったものであり、事実、我々は被写体として残っていない。“僕”すなわち私は、“つー君”とボードゲームをして遊んだ経験が、おそらく実際に何度もあると思うが、その場面を記憶していないし、彼がボロ負けした経験について、事実とは言い難い。そして久しぶりに開けたボードゲームの箱の中に、昔遊んだままの状態でカードが置いてあったことは―実際は別のボードゲームであったが―事実である。
 このように、事実であることとないことを織り交ぜる工夫をする。それ全体が創作となる。

 もしこれを、まったくのフィクション100%で創作しても、作品として何ら問題はない。むしろその方が良い場合もある。
 ただ、この作品に関しては、最初の付箋にこそ意味があった。「ボードゲーム」つまりあの頃遊んだままの状態でカードが置いてあった――というエピソードを映像として見せたい。伝えたい。ここに含んでいるメッセージ性は、フィクション100%では無理なのである。あくまで作る側の問題に過ぎないが、ドキュメンタリーの要素を幾分か含んでいるからこそ、見せたい、伝えたいという思いが増幅し、その重みが画に残るはずなのである。

(2010年5月)

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