点滅人生を悠々と生きる

 昨月、何度目かの誕生日が過ぎる。
 「生き恥」とは、《なまじ生きているために受ける恥》と辞典にある。三省堂の『新明解国語辞典』(第八版)である。
 《なまじ生きて》――のことばが、妙に心にまとわりついて、深く頭を垂れてしまう。誕生日おめでとう、などといったことばを周囲の人から吐かれる瞬間こそ、その「生き恥」が剥き出しになるのだった。けれども、決して死のうとは思っていない。「生き恥」には、晒し甲斐というものがある。

 こんな話を思い出してしまった。

ツレない電子工作

買ってきた点滅キット

 かつて工業高校を卒業した身としては、電子工作の基板のハンダ付けなど、決して粗相(そそう)のない片付け仕事のようなものだった。

 子どもの頃に憧れていたマイコンキット「TK-80」を模し、それと互換性のある電子基板をこしらえてみようではないかとキットを買い、まあちょっと試運転がてら、それをこしらえる前に、もっと簡単なキットで電子回路をつくってみようと呑気に構え、オンザロックでスコッチを飲んでニヤニヤしていたのは一昨年末のことだった。
 そうして昨年の2月――。簡易キットの「点滅キット」を買ってきた。回路の中のちっこい球が、赤く点滅するだけの初心者向け電子キット。電解コンデンサやトランジスタ、抵抗…。こういった極小の部品基板に装着し、ハンダ付けをするだけの作業。ああ、工業高校時代の風景を思い出す。懐かしいなと。

 ところが急転直下、予想外の展開に泡を食ってしまったのだった。

点滅キットの反逆

 あれあれ、なんかこれ、難しいな…。

 指の先にのっけた部品がコロコロと転がり、なかなか基板にストンと落ちてくれない。抵抗部品の縞の色の表記が、ぼんやりと滲んで見えて、何Ωの抵抗なのか手間どう。
 頭の中では昔の経験上、熱くなったハンダごてを基板に当てて、ハンダがチュるっと移るイメージを思い描いていたのだけれど、こんもりとした1ミリほどの体積のハンダ盛りなんて、あの頃は楽に小綺麗に「出来て」いたはずなのに、実際にやってみると、それが全く上手く出来ないのであった。

 気がつけば、ジュルジュルとした汚いダマが、あちらこちらに固まっている。なんじゃあこれは…。

 無惨やな 黙って うつむく 青沼ペトロ

 ハンダごてが悪いのでも、鉛60%のハンダが悪いのでもない。むろん基板が悪いわけではない。なんのせいにも誰のせいにもできない、自分の手先が不器用になっただけのことである。かつての工業高校少年の面影は、こうして眩暈に苛まれるようにして打ち砕かれたのだった。
 これ、あまり書いておく必要はないかも…。
 案の定、電源をオンにしてもさっぱり、うんともすんともLEDは点滅してくれなかった。当然である。キットは完成を見なかったのだ。これぞ轟沈。「生き恥」を晒すとはこのことだ。

電子少年の「生き恥」を晒したがゆえに

手造りのデジタル時計

 思い出せばあの頃、「デジタル時計」なんていうのをつくりました。

 あれね、けっこう手間がかかって大変でした。工業高校の電子回路の授業では、わざわざ基板のプリント工程からハンドメイドしたのですから。
 その完成した堅牢かつ重厚な筐体――小型のパソコン並みに重たかった――の機能というべきものは、ただ一つ。
 それはつまり、液晶に映った文字で現在時刻を点滅すること。いわゆる時計である。電池駆動ではなく、交流電源が必要な、全く重々しいハンドメイドの「デジタル時計」。
 卒業してしばらく所有していた逸品だが、眺めるのにも飽きて、処分してしまった。いや、もしかするとその頃父が、「これは捨てるの勿体ないね」とかなんとかいって、物置の奥にしまってあるかもしれない。しかし、その可能性を今、ほじくり返すだけの余力も気骨な精神もない。私に何も期待しないでほしい。
 いずれにせよ、あの逸品には、どこを見渡しても工業高校少年らしい匂いがただよってくるような風情があった。

「生き恥」を背負いながら

 そんな頃のチョチョイのちょいからすれば、簡易なる点滅キットで涙をこぼしている哀れな自分の姿なんて、どう考えてもド素人の沙汰としか思えない。

 だが、これも現実なのだ。

 明らかに工業高校出身者のプライドが傷ついた恥ずかしさ。自尊心の崩壊。電子立国日本の凋落にも似た、落伍者的感覚。島流しされそうで震える感じ――何度もいうが、これこそ「生き恥」なのだ。
 ちなみに、あの辞典で「生き恥」を記していたその4つ前の語は「生き残り」なのだった。「生き残り」は、《同一の条件におかれたほかの人が皆死んだ中で、まだ生きていること(人)》とある。

 生き残り、ね。《まだ生きていること(人)》。思わずメモ帳に書き起こしてしまった。

 ヤバいのではなかろうか。このままじゃ、死ぬこともできやしない。
 そう思ってもう一度、同じ点滅キットを買ってきて、再びハンダ付けを試みよう。な、わけがないのだ。

 昨年のうち、反動をつけてTK-80互換キット、さらにその先に模擬人工衛星Cansatを造ろう――なんてバカな夢は、愚直に潰えたのである。
 ヤバいかもしれないが、もう私は電子キット少年でも、工業高校少年でもないのである。だから、酒を飲んで、「生き恥」を晒すのだ。たまには誰かと、肉体と肉体を擦り合わせ、乳繰り合って、生きていくであろう。

 そうだ、ムシも殺せないが、かっこいい生き方も求めない。それでいいではないか。
 かっこつけるのはよそう。何度目かの誕生日が過ぎ、自尊心があるとかないとか、そのこと自体も忘れていけばいい。虫けら同然の自分の身体を鏡に映し、何かまた甘いことを口走ってしまったような気がして、私はふわふわのタオルで身体を拭く。かわいいよね、わたし。

 切磋琢磨して“寒風摩擦”していたのは去年の冬の話。今は夏。もとい、「乾布摩擦」が正しい。ついでに書いておきたいが、そろそろいい歳なので、「飯盒炊爨」(はんごうすいさん)もすらりと書けるようにしたい。おっと、最後に「乾布摩擦」。

健康法として、乾いた布で肌をこすること。

岩波書店『広辞苑』第七版より引用

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