ナショジオと梶井基次郎の「交尾」

 オクラホマシティー動物園で撮影したというヨツメウオの写真。
 目が4つ。
 目が4つあるように見える魚。ヨツメウオ。

ヨツメウオ

 私はそれを、『ナショナル ジオグラフィック』(NATIONAL GEOGRAPHIC)の日本版(日経ナショナル ジオグラフィック社)2017年4月号で見たのだ。見たのはそう、つい最近のこと。

 確かにヨツメウオ(Anableps anableps)は、4つの目に相当するものを持っている。実際は、帯状の組織で上下に区切られただけで、それぞれの瞳孔で水の中と外にいる捕食者を認識するらしい。
 しかし、このヨツメウオが面白いのは、オスもメスも個体により右利きと左利きの生殖器があって、右利きのオスは左利きのメスと交尾をし、左利きのオズは右利きのメスと交尾をすること。どうやら少数派もいて、右利きどうし、左利きどうしの雌雄が交尾をすることもあって、その場合の受精がうまくいったかどうかは、卵がかえる結果をみなければよくわからないのだそうだ。

梶井基次郎の「交尾」

まずは猫

 そういえば、野生の生物が交尾をしていて、それを眺めて感慨にふけった作家とその作品が、かつてあった。梶井基次郎の「交尾」(昭和5年)である。

 以前、梶井の「檸檬」については、[Utaro Notes]「檸檬とカルピスの包み紙」で書いた。
 思い出したように私は、梶井の全集(筑摩書房)を引っ張り出してみたのである。
 永らく「交尾」を読んでいなかったので、梶井が何の交尾でほくそ笑んだか――いや、失礼、感慨にふけったか、すっかり忘れてしまっていたが、読めばすぐにそれは思い出された。まず、猫であった。
 二匹の白猫。

不意に彼等は小さな唸り聲をあげて組打ちをはじめた。

梶井基次郎「交尾」より引用

 組打ち?

 組打ちとは、“組み討ち”のことで、《相手に組みついて争う(刺し殺す)こと》と、三省堂『新明解国語辞典』(第八版)で記されている。
 にわかに不安になり、もう一度「交尾」を読み返してみた。

《彼等は抱き合つてゐる。柔らかく噛み合つてゐる。前肢でお互に突張り合ひをしてゐる》
 梶井は、《こんなに可愛い、不思議な、艶めかしい猫の有様を私は見たことがなかつた》とも記している。むろんそれは交尾であるが、組打ちではなく、「組み交わり」の表現のほうが近いように思われる。

その次はカエル

 猫の次は、河鹿だ。カジカガエル(Buergeria buergeri)。
 河鹿を『広辞苑』をひくと、《谷川とその周辺の森林にすむ。体色は暗褐色で四肢の各指端に吸盤がある。雄は美声を発するので飼養される》とあって、その美声というのが私はとても気になった。
 さいたま水族館の動画では、カジカガエルのオスの鳴き声が聴ける。

 確かに、美声である。
 「ヒュルヒュルヒュルヒュル、フィンフィンフィン」とでも書けばいいのか。

 しかしどういうわけか、梶井の「交尾」では、そのような鳴き声になっていないのだった。つまり、オスが「ゲ・ゲ」というと、メスも「ゲ・ゲ」と頷くというのである。これではまるで、別種のカエルのようにも思えるのだが…。

雄はその激しい鳴き方をひたと鳴きやめたと思ふ間に、するすると石を下りて水を渡りはじめた。このときその可憐な風情ほど私を感動させたものはなかつた。彼が水の上を雌に求め寄つてゆく、それは人間の子供が母親を見つけて甘え泣きに泣きながら駆け寄つて行くときと少しも変わつたことはない。

梶井基次郎「交尾」より引用

 そうして彼は、「ギョ・ギョ・ギョ・ギョ」と鳴いて泳いでいき、雌の足下へたどりつく。梶井曰く、《それから彼等は交尾をした》――。

§

 私などの団塊ジュニア世代が小学生から中学生にかけての頃、学生向けの国語辞典には、「交尾」という語は載っていなかったのだった。
 我々学生には、それは神秘なるものではなく、えげつないものとして通念上認識され、語釈すらされなかったのだ。おまえたちには、尚早だと――。しかし、高校時代の国語教科書に、ようやく梶井の「交尾」が載るのである。

 交わるものの中にも、愛に満ちたものと、そうではないものとの違いを発見し、梶井は感動してそれを美化して書いたものと思われる。
 この「交尾」を書いた2年後に、梶井は死去している。肺結核であった。

 死が迫っているからこその求愛、そして交尾。
 死をどこかに感じ得ていなければ、真の愛にめざめることはできないのであろう。

コメント

タイトルとURLをコピーしました