朝井リョウさんのしあわせって何だっけ

 先日、朝井リョウさんの最新刊『イン・ザ・メガチャーチ』(日本経済新聞出版)が刊行された。ずっと以前から日経新聞で連載していたのは知っていた。タイトルだけ。でもこれがようやく1冊の本になり、長年、朝井さんのことをチクリチクリと書いてきた私が、買わないでいられるわけがない。
 買うには買ったが、すぐに読めそうにない。愛読者の多くの人が、この本の書評を凄まじい勢いで書くであろう。私はどこかで目に留まるかもしれないし、目に留めないかもしれない。
 いずれにせよ、朝井さんの著書である『イン・ザ・メガチャーチ』を買ったことで、手の届く場所に“塩漬け中”という意識から、とりあえずの幸福感は味わえた。読書家の気負いとはそんなものである。
 何ら読書冊数などで競いはしないが、これを読まないという選択肢はない。いずれ読む――。その中で人生を楽しんでいくしかない。

 もうここで既に、私自身の些細なる幸福感の在処をさらしてしまった。が、本題はまさにそれ。

幸せってなんじゃらほい?

 『週刊文春』(文藝春秋)で連載中の「私の読書日記」。6人の著名人(酒井順子、鹿島茂、瀬戸健、吉川宏満、橋本愛、朝井リョウ)が交代で毎週執筆する書評コラム。
 その2025年9月11日号の回は、朝井さんの番で、タイトルは「みんな“幸せ”を考える」。

 でもちょっと、このタイトル、曖昧な感じで、意味が重複してしまうのではないだろうか。
 「みんなが」幸せを「考えている」とも受け取れる。「みんなの」幸せを「考える」――とも解釈できる。それとも朝井さん本人が、「みんな全体」幸せを「考えてみたい」という意味合いなのか。
 タイトル一つで、ここに記されている筆者の書評のとらえどころ、受け止めどころに影響を及ぼす。結局まあ、はっきりしないから、解釈は読者様におまかせ――というふうに受け取って、今号の「私の読書日記」(朝井リョウ筆)は、〈人(自分)の幸せについて考えてみようね〉くらいにとらえておけばいいのではないか。

 さて、その内容。
 朝井さんは、最近読んだ本がどれも、偶然にして、「幸せ」について論じられているものばかりだった、と気づいたそうだ。今回書評で挙げられている本は4冊。

  • 小林武彦著『なぜヒトだけが幸せになれないのか』(講談社現代新書)
  • 奥野克巳・吉田尚記著『何も持ってないのに、なんで幸せなんですか? 人類学が教えてくれる自由でラクな生き方』(亜紀書房)
  • 前田裕太著『自意識のラストダンス』(左右社)
  • 谷川嘉浩著『増補改訂版 スマホ時代の哲学「常時接続の世界」で失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカヴァー携書)

ヒトだけが幸せになれない

 朝井さんは最初に、小林武彦氏の『なぜヒトだけが幸せになれないのか』の本を取り上げている。

 生物学的な観点におけるシリーズ、「死」と「老い」に続く小林氏の著作の第三弾。この本のテーマは「幸せ」で、人類学的な視点でその人間生活の「幸せ」をあぶり出しているらしく、朝井さんは読後、人間生活が歴史的にどう変遷したかを図るこの本に対し、《最後まで興味深く拝読した》と述べている。

FIREはファイヤァァァァァァー?

 ただちょっと、朝井さんはたまに、初心者を置いてきぼりにするいいまわしをしたり、専門用語や業界用語を外連味なく流用して独特な表現をなさるので、私などの拙い読者は時々面食らうことがある。これいったい、どういう意味? って。

 まさにこの本の大テーマである、“ヒトだけはなぜ幸せになれないのか”の論点に差し入り、ヒトの「幸せ」の定義を、小林氏が示した生物学的な価値観から「死からの距離が保たれている状態」としていることを踏まえ、朝井さんはこんな文章で述べている。

この尺度を以てみると、たとえば独身でFIREという、一見あまりにも純度の高い自由と独立を手に入れた状態が必ずしも“幸せ”とは限らないということもよくわかる。

朝井リョウ「みんな“幸せ”を考える」より引用

 読後の、まだ熱い火種が冷めやらぬうちに思わず列記してしまったのだろうと推測するが、《独身でFIRE》といういいまわしが出てきて、私は面食らった。意味がわからない。「独身」で、「FIRE」――。

 けっこう私、本気で考えたのだ。
 この「FIRE」って、もしかしてプロレスラー大仁田厚氏のファイヤァァァァァァー! と同じ意味なのかと。大学を出て独身期を謳歌している若者が、〈ワタシって今、最高に自由でウレシイィィィィィィィィ!〉と叫んでいる表現――ではないのかと。
 まさか。そんなわけはない。
 直木賞作家の朝井さんが、そんな幼稚な表現をするわけがない。前後の文章読んだら、そういう意味じゃないってわかるでしょ…いや、わからなかった。もしかして本当に、あのファイヤァァァァァァー! でいいのかも?
 え、そんな。朝井さん、もっと違う表現あるでしょう。

 そんな感じで、そうだと思い込んでしまう読者は、私一人だけではないと思う。苦言を申せば、「FIRE」の注釈がどこにも明示してないのが問題だ。
 とどのつまり、朝井さんが書いた表現は、あの大仁田さんのファイヤァァァァァァー! だと思って読むと、案外わかり易かったりする。
 だって文脈、そのまま通るもん。――でも、やっぱり本当は、そうではない。

積み上げていったおカネのうえで成立する幸せ

 ここでいう「FIRE」とは、“Financial Independence”と、“Retire Early”の頭文字で、「経済的自立」と「早期リタイア」のこと。それを簡素化した専門用語である。
 資産運用を前提として、年間の支出費用を一定程度に抑えることができれば、資産を切り崩すことなく生活できる、早期リタイア(退職)できる状態、という意味が含まれる。

 つまり、あの文章で朝井さんがいいたかったのは、「独身」で「FIRE」した場合において、完全な自由と独立が担保され、いっさいの(規範的)制限がなくなるので、完全無欠な「幸せ」(状態・状況)ではないかという見立てに対し、いやいや、(規範的)制限がない状態は、「死」を選択することとも差がないので、むしろ「死」との距離が近い(縮まる)とも考えられ、「幸せ」とは限らないんじゃないの、ということを述べているようだ。

 朝井さんはそのような文脈で述べてます、と示した私のこの解釈が、もし間違っていたら、どなたかご指摘してください。

 だからね、ニッケイで連載した『イン・ザ・メガチャーチ』買って読めよ、といわんとしているところが透けて見えてくる。というか、いい読者層を狙っていると思う。
 こういうのが朝井さんの、飄々としたしたたかな部分――という見方をしてしまう私の悪い性分なのだけれど、朝井さん本人も、実は「独身」で「FIRE」目指しているんじゃないのか、というのがさらに透けて見えてくるから怖い。
 たぶん朝井さんはもっと若い頃から、そういう上等な「幸せ」を目指していたのだと思う。しかし、目指してはいたが、いろいろと迷うことがある、ぽつりぽつりと考えることがある、やっぱりそれは正しい選択なのだろうか――と。

 朝井さんはなんとなくそうした生活への上達を肯定している感がある。彼のいくつかの著作の節々から、それは感じ取れる。現代日本人のドマンナカの観念で朝井さんは生きている、と私は常々思ってきた。

 私は、ある別の本を読んで認知したのだけれど、Z世代の若者は、みんなほとんど同じ価値観で突き進み、資本主義の出世社会を非難しつつも、それをどっぷり肯定して素直に目指してしまうらしい。落伍したり、無頼者が現れたりというのが、ほとんどない。常にみな同じ価値観で「課せられた観念」にとらわれ続け、眼の前の隷属的ビジネススタイルに素直に手を出してしまったりする、らしい。

 朝井さんはその世代ではないが、現代日本人のドマンナカの環境の中で巣立った作家である以上、物事は全てフラットであり、ヒトがこしらえた経済的理念の中からしか「幸せ」をとらえることができないのだとしたら――。
 結局、そういう作家であるしかない、ということになってしまう。それがなんとなく私はわかってきた。文学賞の実績の積み上げも、経済的理念の資産運用と同じ。いかにして文筆で「FIRE」できるか。ちょっと悲しいのだけれど、あくまでそのうえでの、「幸せ」語りなのである。
 でもね、「FIRE」って、全然自由じゃないと思うよ、朝井さん。

しあわせって何だっけ

 私も人生、ほんの少し長く生きた経験でいうと、「幸せ」って、そんなでかい部分で語らないほうがいいと、気づき始めたのだ。
 ちっちゃいことで味わうのが、「幸せ」。幸せ感。それ以上でもそれ以下でもないと思う。

 昔、明石家さんまさんの歌で、「しあわせって何だっけ」ってあった(作詞:関口菊日出、伊藤アキラ/作曲:高橋千佳子)。
 あの歌詞って、そんな大したしあわせの話じゃない。競馬で万馬券だとか、麻布青山六本木で飲み歩きとか、そんな程度。ぽつりとした達成感とか、何かに勝った気分でほろ酔い程度の、幸せ感のある歌詞。
 結局、人生って、その程度でいいんじゃないと思うことがある。番茶飲むのに茶柱が立ったくらいで、今日一日いいことありました♡って、思えることだってあるじゃない。好きな人が褒めてくれたとか、手を握ってくれたとか、キスしてくれたとか、それでいいと思う。幸せ感なんて。

 そう、キスはとても大事なこと。人類にとって。
 これに関しては、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)の話と共に、また別稿に譲ることにする。

§

 実をいうと、朝井さんが「私の読書日記」のコラムで記した、その他の「幸せ」に係る本の書評についても、私、原稿の段階でそれなりに書き留めておいたのだけれど、これらは省くことにする。

 私も普段、「幸せ」ってなんだろうって考える質である。
 以前にもまして、それを考える度合いは強くなった。私の人生の大きなテーマは、やはり「幸せ」であり、「友」であり、「恋愛」なのである。突っ込んでいうと、これらには仁義と義務とが必要だ。
 だから、朝井さんの書くものは、すべからく、常に私の日頃の観念の、中核に近いところで噛み合っていたりする。強いていえば、ヘミングウェイ、サリンジャー、伊丹十三、開高健、朝井リョウと、私の頭の中にはある。

 どこかでドボンとならないように、「幸せ」については考えていなくちゃいけない。難しい。でも、海の底にだって生き物はいるのだから、そんなに気落ちすることはないのだ。一緒にこの世の中、のらりくらりと生きていきましょうね。

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