暴かれることを恐れて―朝井リョウさんの関心領域

 私は作家・朝井リョウさんの大ファンである。
 もはやなにゆえに、どのあたりで大ファンになったのか、だいぶ昔のことであるにせよ、自分でもはっきりとした理由がさっぱりわからなくなってきている。でもかまわない。

 朝井リョウさんの「いま」考えていること、思っていることを煎じ詰めた書評コラム「私の読書日記」をほとんど毎回、当ブログで取り上げてきたのはご存知の通りである。「私の読書日記」は、『週刊文春』(文藝春秋)で連載されている、著名な6人(酒井順子、鹿島茂、瀬戸健、吉川浩満、橋本愛、朝井リョウ)の交代執筆形式のコラムであり、朝井さんの回だけ追いかけてきたのだった。しかも朝井さんが執筆している内容って、書評というよりも、ほとんど読書感想であることにもたびたび留意してきたつもりである。
 そして今回、よくよく考えた末、朝井さんの「私の読書日記」を取り上げるのを、しばらく(かなり長く)遠慮する(お休みする)ことを決めた。

「人生のサイズ感」は面白かった

 私が初めて朝井さんの番の「私の読書日記」を取り上げたのは、2年前の2023年2月。『週刊文春』3月2日号の「私の読書日記」。タイトルは「人生のサイズ感」だった(「〈再録〉我がツイッター時代のツイートより―『朝井リョウ』編」参照)。ある旅行記の本を読んで、自分の経験譚を面白く書き連ねていたのだ。まさにこれが朝井さんの真骨頂、という感じだった。
 あれから比べると、朝井さんのプロとしてのお仕事の中身が、随分と変わっていったのだなと思う。ほとんどビジネスの話題に集約されていたといっても過言ではなく、特に今年に関しては、朝井さん本人の面白いエピソードがこの読書感想に盛り込まれる機会は、ほとんど無かった気がする。

 それでも、朝井さんが熱量を上げて綴り、固執した価値観から解放されていくさまを見て取れた感のあるコラム「私の読書日記」は、読み応えがあった。一貫して彼の関心領域は、現況日本社会の「ブーム」あるいは「ムーブメント」であり、それがエスタブリッシュメントによって支配されていたりするのだけれど、そういった構図を示唆する面が、もう一つの真骨頂としてよく表れるのだった。
 もし、昭和の時代だったならば、それは自動車産業、コスメ、ファッションの「ブーム」や「ムーブメント」であっただろう。今の令和の時代においては、セクシュアリティとジェンダーとの関係、インベストメントやアイドル系の推し活が、鮮やかな時代風刺や「暴き」の対象ということになり、これらが朝井さんの関心領域でもある。
 とくに今、ここにフラウドの問題が折り重なってしまっているのだ。
 そうしたものとの兼ね合いで、個人の自己管理能力が社会に影響を及ぼしかねない現象と化していることに、朝井さんはいわば「親密」な距離感を保ちながら、共犯関係のあぶり出しに文意を顕にしてきたように思われる。

 だから、彼の“読書日記”は、すっかりジャーナリズム的に「文春らしくはなった」けれど、かつてのような自己体験の面白いエピソードがすっきりと消え、はっきりいえば彼らしくなくなっていったのだった。

推し活に萌え

 私なりにいろいろ左右され、残念ながら前回分の「読書日記」――『週刊文春』2025年10月23日号の「テーマの相対化、現実との距離感」――は、当ブログで挙げることができなかった。自前の文章として私は書けなかったのである。

 取り上げられていたのは、アイドル系の推し活のこと。田中東子著『オタク文化とフェミニズム』(青土社)や太田省一ほか編著『アイドル・オーディション研究 オーディションを知れば日本社会がわかる』(青弓社)などの書籍が紹介され、アイドル系のエンタメ・ビジネスの背後関係や闇の部分に関心が高いことに、私はいくぶん胸躍った。
 そう、朝井さんの関心領域は、ビジネスに乗っかったエンタメの、その背後にある相克に鋭敏となり、それをあぶり出し、暴き、破綻をもちらつかせる手法なのだけれど、彼という作家自身も、いうなれば言語表現の界隈における、“仮面の告白”者としてのインフルエンサーであることに、専ら私は嗅ぎつけていた。
 いや、読者なら誰しも気づいていたはずである。客観的にみれば、ある種のビジネスのパラフレーズ(敷衍)を追う一作家の構図もまた、特異な存在感を示していたように思う。

 「推し」とはなにか。
 『三省堂国語辞典』(第八版)には、《推薦すること》《支持すること。ファンであること》とあり、さらには、《自分がファンである人・もの》と出ていて、最後に、《二十一世紀になって広まったことば》と締めくくられていた。
 「推し活」は、何かを熱く支持したり、ファンとなって参加したり購買行動をしたりすること。国語辞典にも記されていたように、明らかに21世紀になって広まったことばであり、ことばだけが新しく、昔は単にそのジャンルやモノゴトの支持者、ファンといういい方でしかなかった。いま、これを「オタク」云々と称するのは少々、違和感が生じてくるのも已むを得ない話である。

ドント・ストップ!ムーブ!ムーブな朝井さん

 いやいやいや、『週刊文春』2025年12月18日号の朝井番「私の読書日記」の「言葉と自他境界」だって、私は取り上げることができていない。

 宇都宮直子著『渇愛 頂き女子りりちゃん』(小学館)のりりちゃん界隈だとか、鴻巣麻里香著『わたしはわたし。あなたじゃない。 10代の心を守る境界線「バウンダリー」の引き方』(リトルモア)のバウンダリーという自他境界の語彙とかって、もう文学的範疇の外語に近いものだし、たぶん普遍的に意味のわかることば、ではない。ワードがとれたての鮮魚のように活き活きといきり立ってはいるが、3年後にはもう、ピチピチとしたものは感じられないかもしれない。朝井さん、ちょっと追っかけすぎ――。しかし、それが今日の朝井リョウという作家のアドヴァンテージであり、支持されている所以なのだった。

 国民的人気を誇る直木賞作家・朝井リョウさんは、「ブーム」となっているセクシュアリティ、エンタメ、推し活、経済界のトレンド、それらのバズワードと現象をとらえるのが大好きである。しかもそれらのインフルエンサーであることははっきりと申し上げておきたい。
 いわば鮮魚主義。カウンターでお客さんに提供するのは、刺し身とにぎりだけ。
 醗酵させて作るなれ寿司(熟れ鮨)とか、こんがりと炭火で焼くろばた焼き(炉端焼き)タイプの話はダメ。セルフ主義のキャンプで複数人が料理を作ったりいじくったりするタイプの提供者でもない――みたいな。彼は差し向かえでお客さんに新鮮な魚を提供するタイプの、プロフェッショナルの作家さんである。それが彼のスタイルなのだ。であるからして、私自身の関心領域は、刺し身とにぎり自体ではなく、カウンターでの主客それ全体であると述べておく。

 最新の「ブーム」やトレンドは、いわずもがな、やがて「廃れ」たり、忘れられていくものだ。
 その痕跡は、次時代にわずかに残る。しかし朝井さんは、その観測点にあまり関心を抱かない。あくまで動いているものを注視し、五感のアンテナを張り巡らし、いっさい止まってしまった時計であるとか、電源を失ってしまった電子機器、恋愛時代を過ぎて枯れてしまった夫婦生活には、関心は及んでいない。
 彼はあらゆる分野の動的なものに関心を寄せ、そこで派生し、スパイラルの底部から沸き立つような流行語や新語に精細な“解像度”を上げ、自らも多角的にそれらのバズワードを文面に絡ませ、発信していくインフルエンサー。もはや、時代の寵児。世の中の空気の流れの羅針盤的役割を担っているようにも見受けられる。抱えているものに忙殺され、暴き立てられることを恐れている人々の痛いとこをつく。そこが凄い。常に時代の申し子であらんとする意欲には敬服するばかりである。

朝井リョウは読者を暴く

 私は、自分の本当の姿が、朝井さんに暴かれてしまう気がして、怖いのだ。
 気づいたのである。彼の小説にしてもエッセイにしても、常に暴かれる対象は読者本人なのではないか。彼の愛読者である以上、読み手は常にマゾヒスティックに「自己の本性を暴かれる」ことを待ち受けていなければならない。まるで滴り落ちるキャンドルの熱い液体を、一滴ずつ肉体が待ち受けているかのように――。私はマゾなのではないか。彼が私自身を暴き立てることを、心待ちしているのではないか。
 いっぽうでそれが怖い。怖くなった…。だから私は、朝井番「私の読書日記」を読むことを、拒んでみようかと思ったのだ。

 彼が編み出す文面が、リアリスティックに現代日本を描いていると評するのであれば、それはリアルという名の「暴き」の構図であって、その対象は、彼の新作小説を心から待ち焦がれている読者本人なのだった。自己の何かが暴かれた後、尚も彼の作品を読み続けたいと思うのは、まさに緊縛・拘束状態で猿ぐつわをはめられ、サディストにムチを打たれながら自分を蔑む行為に等しいマゾヒズムではないか。作家が読者を暴いていく構図こそ、彼が生み出した新しい「ムーブメント」だったのである。

 ほら、小説『正欲』(新潮社)の本の帯に記してあるじゃない。高橋源一郎氏がこう述べている。《みんなのヒミツ、暴かれた。朝井さん、やっちまったね。どうなっても知らないから》。ほらほら、そこに、《読む前の自分には戻れない》って記してあるじゃない。アナタがその本を持っている両腕は、既にサディスト朝井さんに緊縛されているのですよ。気づいてましたか?

しかるに私は朝井さんを支持する

 考えてみれば、私自身が朝井さんの小説を初めて読んでから、かれこれ10年以上経ち、その月日の長いことにあらためて驚く(「〈再録〉我がツイッター時代のツイートより―「朝井リョウ」編」参照)。

 いわゆる青春小説というものから彼の文体を知り、彼の頭の中のことを想像するのが楽しかった。また同時にそこに描かれているのは、日本人の若い世代の、ひとたまりもないほどか弱い心模様であったし、痛さであったし、苦しみであったりして、関心が及んだ。若者という世代の熱い心や友情、愛情がほとばしり、それを紐解ける指南書ともいえる小説作品で占められていた。ある意味、日本人社会のリアリティのあるフィクションが、彼の小説を読むことで味わえたのだった。
 朝井さんが興味を示すベクトルも、月日が経つ中で大きく様変わりし、自然味のある豊かな青春小説から、若者たちが実生活の金銭的欠乏感や孤独さから逃れようと闘う中で、過剰なビジネスの世界に加担したり、自分が何者かであることを暴かれる小説へ――。純真だった若者たちの姿は、狂信的なビジネス戦争の渦に巻き込まれ、ボロボロに砕け散った相貌へと変わり、邪悪と虚妄が入り混じった現代社会を照射する。どこかで信頼感を喪失してしまった日本人のあり様が浮き彫りとなって、読者は皆カウンターパンチをくらい、その痛みを共有する小説へと変わっていったのではないかと思われる。

 しかるに私は、朝井リョウを支持し、彼の作品を愛し続ける…。決して共鳴はしたくない、マゾヒスティックな愛である。

 こんなことも思った。
 私が朝井さんの短編作を読む機会がある中で、気づいたのは、一般的な恋愛感情を交差する恋人どうしの日常が、彼のフィクション小説にはほとんど描かれてこなかったこと。愛撫やセックスの描写がほとんどないこと(「〈再録〉朝井リョウさんの書いてはいけなかったこと」参照)。
 その理由として考えられるのは、愛情を人々の信頼に委ねるのではなく、資本主義的な価値の物差しで愛情を量り売りする手段でしか、恋愛を指し示せない情緒的な懸念――これは、衝撃的な指摘余話として、自己判定で認めざるを得ないような気もするが、おそらく朝井さんは真っ向から否定するだろう。
 私のこの推論は、おそらく痛いところをついていると思われる。が、その白黒をはっきりさせようとは思わない。なぜなら、私は彼の作品に対して、マゾヒスティックな愛を抱いているから。人の恋愛感情――単なる「信頼感」というものと「恋」との差分も含めた感情の総体――が、ディープキスやオーラルセックスなどの相思相愛の性的行動に自然と傾斜していく、その「見えて然るべき」言語表現が、彼の小説ではほとんど描かれていないのだ。

 過去、「私の読書日記」のコラムの中で、朝井さんは「幸せ」(幸福に対する感度)や、セクシュアル・マイノリティのメンタルヘルスに関心を寄せ、それらに関連した書籍を紹介してきている。
 朝井さんが得意とする世界観が上書きされ、過剰で人工的な調味料や合成甘味料に近いものに傾きつつあり、小説家としての彼なりのユートピアやディストピアの言語表現が独創的に生まれつつあるといっていい。推し活至上主義偏向への警鐘論や、フェミニズムの観点も加味されて、これからの彼の小説はもっと新しく面白くなっていくであろう。応援していきたい。

 がんばれ! 朝井リョウ!

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