新聞を読んで読み書きを鍛える

 学生時代の頃は、小中高と国語の授業がいちばん好きだった。もともと本を読むことが好きだったし、国語の授業はその延長のような気がして、他の教科よりも率先して励んだ。いや、進学のための、受験勉強に励んだという意味ではない。日本語のことばを聴くこと、読むこと、書くことが好きなだけのことだ。

 そんな私でも、熱心に新聞を読み出したのは、工業高校を卒業した後だった。
 新聞はオトナが読むもの――という固定観念を、千代田学園(千代田工科芸術専門学校)のジャーナリズムの講師だった秋吉茂先生が全否定して、そんなのは関係ない、人々の暮らしと、私たちの国のありようがそこに示されているのだから、知りたいと思うことが重要なのだ、と教えてくれた。
 だからそれ以降、私は熱心に新聞を読むことにした。

新聞を読むのは難しい?

 最近は、家庭での新聞購読の習慣が薄らいでいる。大方、新聞を取らなくなった理由としては、スマートフォンの無料のニュースアプリを見るから不要――というもので、新聞の年間購読料が高めに感じるのも、敬遠される理由として挙げられるのではないか。
 果たして、〈紙の情報はいらない〉かというと、決して全てスマホのニュースアプリで得られるものではなく、むしろ大事な情報源がざっくりと削ぎ落とされていることに気づかない。新聞は、対価を払って見るだけの価値があるのである。

 新聞を読むことのメリットは、記者が述べて記した要旨と、それに付随する様々な資料的見解が太い情報源となって、我々の日常の糧になることだ。そもそも民主主義国家の主権者として、自由で闊達のある公民の暮らしを維持し守っていかなければならない。それはいわば、社会人の務めである。そのために必要不可欠な「知」は皆の資産であり財産であり、国家として蓄積していくべきものである。

 話が大きすぎた。
 堅い話は抜きにして、要するに新聞のありがたみというのは、紙面の中の膨大な活字なのである。私は活字を読むのが好きなだけ――ともいえるのだが、記事に記してあることを理解するには、なかなかの技量がいる。ある意味において、「読む」ことの苦難を乗り越えなければ、理解したうえでの「知」には到達しない。
 だから、子どもはなかなか新聞を読むことが難しい、と思う。
 本を読むことが好きだった私でも、さすがに新聞を読むのは難しくてつらかった。もしオトナが子どもに絵本を読み聞かせるように、新聞に記してあることをオトナが子どもに読み聞かせられたら? そんな家庭に育ったならば、それは最高の教育であり、最大にして価値のある時間だといえよう。

赤ペンで書きなぐれ

 秋吉先生だったかどうかはっきり憶えていないが、彼が急に来られなくなって、代わりの講師が突貫で授業をしてくれたことがあった。
 その講師は、手持ちの新聞の「ある記事」を、生徒の人数分複写しておいてくれて、生徒たちに配ったのだ。これからこの記事に書いてあることをしっかり理解するための授業をやる…。まず何より、ジャーナリストは人が書いたものをしっかり理解できていなければ失格だ。その練習としての新聞記事だ…。
 講師はこういった。
 新聞に書いてあることをちゃんと理解するには、赤ペンでもなんでもいいから、気になった箇所に傍線を引っ張って、あとでじっくりそれを眺めること。記事の内容(要旨)が理解できると同時に、自分がどんなことばや文章に関心を持ったかが確認できる点で、傍線を引っ張っておくことはとても大事なのだと――。

 たかが傍線。されど傍線。このことは私自身、大変勉強になった。

学校生活で子どもたちが働く?

 2025年12月23日付の東京新聞朝刊の記事。見出しは、「公共性と個の創造性両立を」。筆者はMPower Partners Fundゼネラルパートナーの村上由美子さん。
 ドキュメンタリー映画『小学校~それは小さな社会~』(監督:山崎エマ/2024年)が話題を呼び、東京の公立小学校の学校生活が描かれ、その主体となっている子どもたちの学校生活が、協働的であることにふれている。村上氏はこのように述べる。

児童が学校の運営の一部を担い、共同体の一員として機能するという日本の学校生活は国際的にみて特異であるようだ。

『東京新聞』2025年12月23日付朝刊「公共性と個の創造性両立を」より引用

 ここまで読んでみて、私は強烈にこの記事に好奇心を抱いたのだ。なぜなら、子どもたちが教室で清掃をしたり、給食の配膳をしたりするのって、“あたりまえ”のことだと思っていたからである。
 海外では、専門スタッフが清掃し、行事の準備は保護者や教師がする場合が多いという。日本の学校運営のシステムは、世界的にみて“あたりまえ”ではなかったのだ。

 この日本の学校運営のシステム――子どもたちが主体的に協働する――が、日本人社会の原理原則である「共同体規範」を生み出したと考えればいいのか。あるいはもっと大昔からの、民族的な「共同体規範」が、学校という場でも補強的な役割を果たしてきたというべきなのか。この思索は誠に興味深い。
 いっぽうで村上氏はこんなことも述べている。

この規範が経済や産業の革新力に対する課題を浮き彫りにしている面もある。調和の重視は異論や非連続的な発想を抑え、失敗を許さない風土は挑戦をためらわせる。既存の枠から逸脱する行動が敬遠されれば、個々の創造性はおのずと萎縮する。

『東京新聞』2025年12月23日付朝刊「公共性と個の創造性両立を」より引用

共同体規範の逆行を掴み取れ

 小見出しにもあるとおり。「革新力 育ちにくい日本の教育」。「経済の将来を決める課題に」。この記事の後半の部分で、重んじてきたことのデメリットの部分について、その課題などが示されていた。

 こうした記事を読んだことで、日本人がいま置かれている状態と、何が反映され、何が失われてきたかが理解できた。新聞記事でなければ発見できないような、その文脈の矛先を認識することができる。その立場にいる学生が、この記事を読んで気づくわけである。たちまちそこから、革新的な力は担保されていくのだ。
 新聞の強みは、毎日即座に読むことができ、さらなる個人の興味や関心が再発見されることだ。新聞はそれを押し広げる原動力となり得る。
 「知」は新たな「知」とつながり、人を助けたり守ったりできる。若者は特に、難しいと思える記事に挑んでほしい。

 それはそうと、私は普段からセクシュアリティ教育などに関心を持っている。新聞記事に頼る部分は大きい。
 公教育で性教育がなかなか行き届かなかった過去や現在の事例が、日本人社会にほとんど罪深く根を下ろしてきたことは否めない。
 いま、最も関心を寄せているのは、「性的志向」(及び恋愛志向)の多様さだ。
 とりわけ、「ロマンティック・アセクシュアル」(恋愛感情はあるが、性的欲求を抱かない人)や「アロマンティック・アセクシュアル」(恋愛感情も持たず、性的欲求も抱かない人)のマイノリティに強い関心を抱くようになり、いまそれを学ぼうとしている最中である。

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