
李徴(りちょう)は虎(トラ)になった。その変身の悲劇に何たることかと巻き込まれていったのが、友人の袁傪(えんさん)。李徴は袁傪に、自分は死んだ――と妻子に伝えてほしいと懇願する。
日本人なら誰でも知っている、中島敦の『山月記』の物語である。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性狷介、みずから恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
中島敦『山月記』より引用
私はたしか、高校3年の国語の授業で、『山月記』を知ったと記憶しているが、その記憶は間違っているかもしれない。かつての教科書は手元に無く、処分してしまい失しているから。
でもあの当時、私の友人がしきりに、『山月記』の話題を持ち出しておしゃべりをしたのは憶えているので、〈この短編小説、少なくとも同年代の若者にウケているんだな〉と直感した。ヒトが悲しみに暮れ、異動物の虎になってしまうという物語は衝撃的であり、なぜ我々若者はこの中島敦の奇々怪々な作品を学ぶのだろうかという命題の中で、返す返す漠然と、脳裏に李徴と袁傪の男たちが刻み込まれていったのである。
だから、日本人なら誰もがこの物語を、知っている――。
私の中で刻み込まれていた『山月記』が再び蘇ってきたのは、昨年、哲学者・永井玲衣さんのエッセイを読んだからだった。永井さんは、『小説すばる』2024年9月号の「これがそうなのか」第9回「その姿を見なかった」で、こんなことを冒頭で告白している。
「いつか自分も虎になってしまう」
しまいそうでなれない虎
尤も、永井さんのそれは、高校1年の時のことだ。《臆病な自尊心と、尊大な羞恥心をかかえて、もてあましていた》16歳の時――。
それを読んで、私もふと思い出した。
おそらくあの時、私の友人がしきりに『山月記』をしゃべっていたのは、その友人も〈自分が虎になってしまいそうで気がヘンになる〉――というようなことを暗にいいたかったからではないのか。今にして思えば、それを私に打ち明けたかったに違いない。
しかし、もし、その時の私が友人の心持ちを「理解していた」として、友人にいってしまうであろうことばはきっと、
〈おまえはどうせ虎になんかなれない〉
だったと思う。もしそれをいっていたならば、友人はひどく傷ついたかもしれない。いわなくてよかった、といま思う。永井さんも同じようなことを述べていた。
『山月記』の読書会
永井さんは芸人・大島育宙さんとフリーアナウンサーの西川あやのさんと3人で、「夜ふかしの読み明かし」というポッドキャストを配信しているそうだ。その「夜ふかしの読み明かし」で、『山月記』の“読書会”を配信したそうである。その時永井さんたちは、あらためて「虎になる」とはどういうことなのか、討論したらしい。
今年の五月に『山月記』の読書会を配信したときもそうだった。実体をもたずに浮遊している観念が、熱を帯びて輪郭づいていく。それぞれの言葉が、直接関係のないと思えたことまで、すべて関係していく。坂道を駆けていくようだ。どこまでも遠くまで行けるような気がする。
『小説すばる』永井玲衣「その姿を見なかった」より引用
その時の“読書会”の話を要約すると、こういうことだった。
3人の会話の中で、『山月記』は「喪失」の物語ではないのか、とか、「自死」の物語ではないのか、と出た。しかしそうなると、いずれにしても『山月記』は「きつい話」になってしまう。だからそれゆえに、“救いの兆し”はなかったのだろうかと話は進み、「まだ李徴は虎にならない可能性を残している」――のではないかという、いわば“ヒトとしての望みあり”めいた話になったようである。
え? そうなの?
と私は思った。

李徴は虎になった…のよね?
高校生以来、永らく読み返していないと、頭の中で『山月記』が勝手に別の『山月記』を捏造しそうになるので危うい。私の中では李徴は虎になり、消えた=自死と解釈してしまっていた。本当に「虎にならない可能性」などあったのだろうか。
もう既に教科書は無いので、幸いにして書棚にあった、ちくま学芸文庫の『名指導書で読む 筑摩書房 なつかしの高校国語』で『山月記』を読み返した次第である。
そういえば、『山月記』を初めて読んだ時は、とても面食らったのだった。あの冒頭の、《隴西李徴は博学才穎》でいきなり隴西(ろうせい)って出てきて、これ何? と思い、さらに李徴って、何のこと? と、頭の中が混乱したのだ。パニックである。李徴とは、彼の国の人の名であるとわかっても、もはやとてつもなく大昔の、想像すらできない世界で起こった事件の主人公としか思えなかったのだ。
虎榜(こぼう)とは、進士(官吏登用資格試験)の及第者を示した木札のことで、俊才を「虎」に喩えたと本の解説に記してあった。なるほど、だから、虎になったのか?
もともと彼は進士に合格した頃、《豊頬の美少年》であったところ、人との交際を絶ち、詩作にふけり、その成果が芳しくなくなると、面影は消え、妻子との貧しい暮らしにも耐えきれず、《一地方官吏の職を奉ずる》とある。現代の高校生には縁遠い話だ。
彼はかつての同輩を低く見ていたといっていい。そのため、一地方官吏として働く日常の深い心の内では、自尊心が傷つき、怠惰となり、狂信してしまうのだった。彼は叫んで家を飛び出したまま、帰ってこなかった。
それから1年後――。監察御史の袁傪が勅命により嶺南に訪れるため、商於(しょうお)で宿す。翌朝早く出発し、険しい道の草むらで、虎と遭遇するのだった。その虎が、まさしく友の李徴であった。
ジ・エンド…ではない
“読書会”の大島さんはこんなことを述べている。
ただ単に、シニカルで意地悪な文学ではない。だから最後さ、すごく優しいなって思うのはさ、李徴に人間にカムバックする可能性をまだ残しているよね。完全に虎になっちゃったエンドではないから。
『小説すばる』永井玲衣「その姿を見なかった」より引用
『山月記』の終わりの段落はこうなっている。
一行が丘の上に着いた時、かれらは、言われたとおりにふり返って、先ほどの林間の草地をながめた。たちまち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのをかれらは見た。虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮したかと思うと、またもとの草むらに躍り入って、ふたたびその姿を見なかった。
中島敦『山月記』より引用
なるほど、虎(=李徴)は自死したとも書いていないし、ただその姿をちらりと見せただけだ。やがて人間にカムバックしたかもしれない――。かもしれないが、かもしれないとも書いていない。
ちなみにこの作品は、中島が中国唐代の伝奇小説『人虎伝』(李景亮撰)に拠ったと解説本に記されている。版本は清代編の『唐人説薈』(とうじんせつごう)だとされる。
虎だろうが牛だろうが豚だろうが
若い頃から不勉強で、自尊心とか羞恥心だってそんなに深く考えたこともなかった私は、虎であろうがなんだろうが、なにかに変幻してしまうのではないかと恐怖心を抱く以前に、私はヒトではなかったのでは?――まだヒトに成り得ていないのでは?――と思うのである。今でさえも私は、ヒトの子であるのかどうかさえ、疑わしいと思っている。たまに本当に疑うのだ。私は本当に、ヒトなのかと。
他人が一斉に向かう方向に、つまり郷に従うことが不得手だった私は、そもそも自分がヒトであるのかというところを疑い、それを疑わない他者は、なにゆえに自分がヒトであることを立証できているのか、そんな他者への猜疑心に駆られることもあった。ヒトではないから、ヒトにまだ成り得ていないのだから、自分はヒトだと思い込む傲りがあり、未熟なので、学ぶのだと。そもそもヒトでなかった者が、たまたま鏡に映った虎の姿を見て仰天するのなんて、別段不思議なことでもなんでもないじゃないか――と、『山月記』の作者に対する反抗心も無いことはなかったのである。
後腐れないことはいいことだ
もっとはっきりいってしまうと、学生時代のそれまでの腐れ縁の友人と、縁故を切りたかったという面もあった。
全部とはいわない。
『山月記』の話を持ち出された時、李徴は虎になったがまだ死んではいない、人間に戻れるチャンスはいくらでもあるんじゃないかと話したうえで、友人が心を和ませ、良き友を持ったと感心されるのを、私は拒んだというか望んでいなかったのかもしれない。それからも縁が続いていくことを私は警戒し、相手に歩み寄ることをしなかったのである。なんという愚かな自分だったのだろう。
若い頃はそうやって、残酷無比な人間関係の断ち方を考えていたりもしたが、もしヒトが孤独に苛まれ、何もかもチャラにしたい、リセットしたいと思う時、虎になりたいと思うことだってあるのじゃないか。
いっぺんヒトは虎になって、心底自分のダメなところを見つめ直してみたいと思うのならば、李徴の虎になるというのは決して悲劇だけの事柄ではないのではないか。もちろん、ヒトに復活する余地はあるだろう。しかし、復活することが是であると思うのは、まだまだヒトを疑ったことがないか、ヒトを信用しすぎているか、孤独がどんなものであるかを知らないヒトだ、といういいかたもできる。
それに、やり直しがきくと思ったら大間違い、ということも考えておかなければならない。いっぺん虎になったら、死にはしないけれど、もう二度と人間には戻れない、人間の世界から離れなければならない現実の厳しさも、踏まえておく必要がある。なんでもかんでもドラクエみたいに復活できないよ――。だとすれば、どうするべきか。
間違ったことをしたら、戻れるかどうかわからないが、いっぺん誰しもヒトをやめて、虎になってみよ。
こんな恐ろしい文言を、私は無責任に書き記してしまう。
真の幸福を求めるのならば、残り虎の半生になったっていいじゃない。ヒトじゃなければ、幸福になれないとでも思っているのか。
だが、この幸福というのが意外と厄介で、欲に絡め取られたままの幸福は、真の幸福とはいえない「偽の幸福」なのだ。真の幸福とは――と考えると、やはりいっぺん人から離れて、虎でも牛でも豚にでもならなければならないのじゃないか。
そこに作者の中島は機知を求め、物事を改心のつもりで重くとらえ、『人虎伝』の説話から着想を得て、共感し、人々に伝えたかったのではないか。
§
要は結局、ヒトの人生とは、覚悟の問題なのだ。恥を忍んでという覚悟。ここは誰がなんといおうと、という自分を信じた覚悟。それなくして、真の幸福なんて無理。むろん、私はそういう覚悟が薄いから、ヒトなのか虎なのか虫なのかさえ曖昧なまま生きているのである。それだって別にいいじゃない。
思うに、『山月記』で救いなのは、ヒトにカムバックできる余地があること云々、じゃない。李徴には、一人の友人・袁傪がいるということ。
虎になってしまう友人を見て、心の底から悲しみ、どう望みを叶えてあげられるのかを必死に考えてくれている。そんな友人が一人でもいたら、もう幸せではないのか。虎になって死んでしまったって構いやしない――と私は思う。
もし、そんな一人の友人さえいない人生なら、悲劇は真の意味で悲劇のままだと私は思うし、虎になってしまう悲劇よりも、そんなあなたの悲劇のほうが大きい、ともいえる。繰り返していうが、袁傪がそこにいなければ、『山月記』という物語は成り得なかったのである。
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