
翻訳家でエッセイストの岸本佐知子さん。PR誌『ちくま』(筑摩書房)で連載しているコラム「ネにもつタイプ」が怪しいくらいに面白いので紹介し続けている。前回はことばの死語の話だった。ことばにも死後――死語によって漂う死後の世界のこと――があって、岸本さんはそれにうなされるようだ。私も最近、あれを読んでから死語を意識するようになってしまい、やっぱり「海パン」は息の根を止められたかに思われたものの、まだ生きてこの世をさまよっているのではないかとも思えるのである。
吹雪じゃなくてホチキス
『ちくま』2025年6月号(No.651)の「ネにもつタイプ」のタイトルは、「吹雪」。
最初、目次だけを見て、私は思った。こんな初夏の季節に「吹雪」だなんて、岸本さん、ずれた話するじゃない? これはもしかして、シャンソン歌手の越路吹雪さんの話かしら――。
サン・トワ・マミー(Sans toi ma mie)。
二人の恋は 終わったのね。
と、思った人は大はずれです。ブー。
正解は、ホッチキスの話でした。今号「吹雪」の話題は、ホッチキスです。
タイトル、おかしい――。
ホッチキスはホチキス
そう、そう、そう。そういえば私、偶然ながらさっき、ホッチキスを使ったばかりなのだった。それも小型のハンディータイプのホッチキスではなくて、大型のやつ。分厚い紙の束でも綴じれます。
大型のやつは、ちょっと太い針になってて、ガシャンとやる時にけっこう力がいる。なので、大人じゃないと無理かな。子どもだと使いづらい気がする。むろん私は随分と大人なので、へっちゃらに使いこなせるのだけれど、家にあるこれは、父が生前買ったもので、もう30年以上我が家で使い続けていると思う。
ところで、ホッチキスって、商品名?
英語でどう書く?
そんな些細な疑問がわいてきた。こういう時には、岩波の国語辞典を開くのだ。
「ホッチキス」をひくと、こうある。
えーと、ぼったくる、ほったて、ほったらかす、ほったん、ぽっち、ぼっち、ボッチャ、ぽっちゃり、ぼっちゃん、ぽっちり、ほづつ、ほっつく、ぼってり、ホット…。出てない。
「ホッチキス」が無いじゃない????
いや、別段、岩波さんがこの世のホッチキスの存在を黙殺したわけではなくて、これ、「ホッチキス」じゃなくて、「ホチキス」でひけばいいのだった。そうよ、ホチキスともいうのだ。
書類などを綴じ合わせるのに使う文房具。柄を押さえると、コの字形の針が出て紙を貫いた後、角の部分で内側に折れ曲がる。ホッチキス。
『岩波国語辞典』(第八版)より引用
日本で初めて輸入された商品の製造会社名E.H.Hotchkissから。英語ではStaplerと言う。
このE.H.Hotchkissというのは、アメリカのメーカーだそうである。
では、日本人はいつ頃からホチキスを使っていたのか?
もともと、1850年以降にフランスで開発されたステープラー(機械式紙綴器)といわれるものであるが、ホッチキス社のホチキスは1903年に輸入され、使われ始めたらしい。日本ではホチキスを「自動紙綴器」と紹介して販売。これに便乗して開発された国産商品も、その後続々と現れていったというわけである――。
まあ、どう足掻いたところで、一度もホチキスを触らずに一生を終えることはできないくらいに、それは日常において何かしら事務的な必需品であって、結局誰もが使って知っているもの。ホチキスを知らぬ者はいない。あの岸本さんだって、日常的に使っているアイテムなのである。どうやら仕事場にあったホチキスの霊が、岸本さんにささやき始めたらしいのだ。

岸本流名解説
岸本さんは仕事の締め切りに間に合わず、数えられるくらいのいくつかの怠惰な心持ちで喘いでいる時、ふと目の前にあったホチキスに心を奪われた。
ホチキスという存在は、その存在感が増すほどのものではなく、むしろありがたみという点でいうほどのことはない、事務用品としては地味なものであり、気がつけばそこにあった、という程度の存在。どこの家でも必ず一つは有って、無いことはないのだけれど、使ったらすぐに忘れられてしまうもの――。
それは読み始めた私にとっても意外な展開であった。ほとんど突然、本当になんの脈略もなく、「吹雪」とタイトルを付けた本文の中で岸本さんは、なんとホチキスの構造について説明し出すのだった。このように――。
本体が銀色で、V字型のアームのそれぞれの先端、ちょうど指が当たる部分に、ちょっとパールがかったような光沢のある臙脂色のプラスチック製パーツがついている。V字のアームを開いてみる。すると中にはさらにホチキスの針が格納してある細長い部分があり、そこも開いてみる。その格納庫の先端に針を固定している金具を開くと、中には銀色のバネがあって、そのバネの力で針はその場所に正しく押し上げられているのだ。
岸本佐知子「ネにもつタイプ」「吹雪」より引用
ホチキスとはなんぞや、の語釈として、天下の岩波の国語辞典なら、間違いなく不採用な文章である。パールがかったとか、格納庫だとか適切感に欠ける。いや、失礼。
このあと岸本さんは、手に取ったホチキスで弄ぶのだった。いや違う、そうではなく、ホチキスの構造上の不思議さを試すのだった――。
ではなぜ、タイトルが「吹雪」だったのか。それはね、皆さん読んで確認してみてくださいな。岸本さんのエッセイは本当に面白いから。
偉大なるステーショナリー、ホチキス。そして偉大なるエッセイスト、岸本佐知子さん。
今度、百均に行って、いいホチキスでもあったら、買ってみよう。うんちょっとかっこつけて、ステープラーと呼ぼうかな。
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