
私は高校を卒業して19歳の頃に、新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』を買って読んでいる。
乱歩文学の妖しさについてはもはや述べるまでもない。しかしながらあの頃、そのうちの短編作品「鏡地獄」をしっかりと読んでいたことに喚起を得て、薄暗い部屋の中で狂気の世界に浸っていた19歳の自分自身に、ふと戻ってみたい気がしたのだった。
こうして振り返って書くことも、その狂気の沙汰の片鱗に直にふれていくことにもつながり、ややもすればおののく自分がいるのである。それは覚悟しておこう。
狂愛に満ちた青年
「鏡地獄」の短編作品は、ある青年がひどく光と鏡の世界によろめき偏執したために、精神を病み、最後には狂ってしまうという恐ろしい話である。乱歩はこれを書き、大正期の文芸雑誌『大衆文藝』1926年10月号に掲載された。
――ある大人たちの、《怖い話》や《珍奇な話》を愉しむ妖しげな会合。友人のKが、会の説話の最後に、やはり珍奇で恐ろしい話をするのだが、それは、Kの友人の、なんとも哀れで不幸な話であった。
Kの友人は、ガラスやレンズ、鏡などの“物が映るもの”に異様な関心があった。
小さい時からそうであった。幻灯器、虫めがね、万華鏡といったものが彼の遊び道具であり、そこから関心が他に移ることはなかった。
Kが彼の家に訪れると、彼はKにそれらを見せびらかして得意がる。特殊な現象で、ある像を浮かび上がらせてみたり、レンズでは凹面鏡で恐ろしく自分の顔を拡大して見せたりした。
彼の両親が亡くなり、その財産を相続してからは、“実験室”までも建築し、いっそう映り物のカラクリじかけが巧妙になっていくのであった…。
それが科学的な興味の範疇を超えていることに、この話の恐ろしさがある。
彼がよりいっそう偏執的な、性的なものにうつつを抜かすようになってから、ひどく人間性を失っていく様が感じられる。
こんな文章からそれがわかる。
ある日、彼の“実験室”にKが訪れると、奇々怪々なものが壁いっぱいに映り込んでいたのだ。
針を植えたような黒い草むら、その下にギョロギョロ光っている盥ほどの眼、茶色がかった虹彩から、白目の中の血管の川までも、ちょうどソフトフォーカスの写真のように、ぼんやりしていながら、妙にハッキリと見えるのです。それから棕櫚のような鼻毛の光る、ほら穴みたいな鼻の穴、そのままの大きさで座蒲団を二枚かさねたかと見える、いやにまっ赤な唇、そのあいだからギラギラと白い瓦のような白歯が覗いている。つまり部屋一杯の人の顔、それが生きてうごめいているのです。
江戸川乱歩「鏡地獄」より引用
いうまでもない、それは彼の顔の各部分を、とてつもなく拡大したものだった。
《実物幻灯…鏡とレンズと強烈な光の作用によって、実物そのままを幻灯に写す、子供のおもちゃにもありますね、あれを彼独特の工夫によって、異常に大きくする装置を作ったのです》
彼は自分の好奇心を高ぶらせつつ、それを友人に見せつけ、快楽の境地に浸るのだった。
性的な没入のための装置
“物が映るもの”への偏執ぶりは、日増しに度が過ぎていくのだった。
“実験室”を小さく区切り、壁の上下左右に鏡を張り巡らし、「鏡の部屋」に仕立てられた。その空間では、見えるものが全て鏡の反射によって、無限とも思える連続性と果てしない仮構の世界を作り出す。
彼は自らそこに入り浸って、四方八方に反射し合う自分の姿を見て楽しむのだ。想像すれば、彼は服を脱ぎ、裸身を晒していたに違いない。Kもその部屋に入るよう勧められたが、はっきりと拒んだのだった。
自分を映すだけでは飽き足らず、彼以外にもその「鏡の部屋」の世界に入り浸った人物がいた。
それは、家の小間使であり、彼の恋人であった。18歳の女である。
あの子のたったひとつの取柄は、からだじゅうに数限りもなく、非常に深い濃やかな陰影があることだ。色艶も悪くはないし、肌も濃やかだし、肉付きも海獣のように弾力に富んではいるが、そのどれにもまして、あの女の美しさは、陰影の深さにある。
江戸川乱歩「鏡地獄」より引用
彼は娘と共に「鏡の部屋」に入って限りない時間を過ごし、快楽を得る。男の裸身と女の艶めかしい裸身とが重なり合った鏡反射の中で、それがどのように映り、どのような姿態の幻想性を生み出しているのかは、実際に体験してみなければわからないことだ。
これは乱歩文学のエロティシズムの極致である。
どんな幻想世界を目の当たりにすることができるのか、私は読んでいて頭がクラクラとした。おそらく彼らの白い肉体の交接は、無限のエロティシズムを上書きしながら、無数に映り込んだ黒い影と、赤紫に腫れ上がった肉体の一部とが激しく交差し、奇矯な姿態の絶頂にあったと思われる。それ以上の想像は、私にはできない。

不幸な結末
やがてKの友人は、心身をひどく悪くしていく。
だが彼は、複数の様々な形の鏡を収集し、“実験室”の中に担ぎ込んでいった。庭にはガラス工場を建て、なんと技師や職工までも呼び込んで、何かをこしらえさせた。そうして生活そのものが、より異様な暗い空気に満たされていくのだった。
Kは彼の体が心配になる。病的なほどに変わりゆく彼を気遣い、より頻繁に彼の家に出入りするようになった。相変わらず“実験室”では、《驚くべき怪奇と幻想の世界》の萌芽であったらしい。
ある日、Kが彼の家に訪れると、既にたいへんなことが起きていた。むろん“実験室”での出来事だ。
彼は、誰も見たこともないような“ある奇妙なもの”をこしらえて、そこに閉じこもっていた。閉じ込められていたというほうが正しいのだろうか。
彼は結局、その中で気が狂ってしまったのだ。見るに絶えられぬ、空前絶後の恐怖と戦慄の姿であったろうと思われる。自業自得の沙汰の出来事だった。
私の不幸な友だちは、そうして彼のレンズ狂、鏡気ちがいの最端をきわめようとして、きわめてはならぬところを極めようとして、神の怒りにふれたのか、悪魔の誘いに敗れたのか、遂に彼自身を亡ぼさねばならなかったのでありましょう。
江戸川乱歩「鏡地獄」より引用
§
これが、乱歩の「鏡地獄」の全容である。
19歳の私にとっては、どきりとするような短編小説だったのである。
それが何に対してのショックの代謝かといえば、ここでは語るのを憚るけれども、性と鏡による悪魔の取引というべきもの――とだけはふれておきたい。これ以上のことは、のちに[美裸態プロジェクト]のサイトで語ることにする。
今のITとかデジタルの占有時代とは異なる、科学といえば学校の理科室で体験できるような、まさに乱歩が描いたような光とレンズの妖しさへの好奇心が、私の世代の少年時代にはあった。
虫めがねを持って、日光の光を一点に集め、板の台を焦がしてみたりして遊んだ思い出がある。鏡に反射した光を、壁に向けて映して楽しんだこともあった。掻き立てられるのは常に好奇心であり、それが未来につながる一歩のように思われた。
現代のあらゆるところの鏡の存在はゆるぎないものとして、その鏡の存在以外に、今はデジタルカメラの利用価値があまりに大きいだろう。人は昔とは比べ物にならないほど、夢幻ともいうべき視覚の好奇心に駆られるようになった。それゆえ視覚性は既に、その実存の確たる証拠とはならなくなってしまった。
世の中には美しいものと醜いものとがある。それは厳然たる事実である。
それらへの執着的取捨選択は、自身の内面との関わり合いの中で決定づけられる。醜いものを拒むとは限らない。人は意志によらず、悪魔の傲慢なささやきによって、その診断を阻まれ、今日、人々は、つらく醜いものを加工して消したりして、誰にも気づかれずにごまかすことを覚えてしまった。
自然神の怒りは、やがて人類の人間性を危機に追い込むであろうと、私は半ば怯えているのだが、鏡とレンズにはいつの時代にも悪魔が棲み着いているかのようである。
この悪魔のささやきに気づかぬ者は一人としていない――。乱歩の「鏡地獄」の狂乱は、現代人の心もゆさぶり続けるのである。
関連記事

コメント