ことば―この世はフーゾクをさだめるなり

 私が運営しているウェブサイト[カゼヒカル やましい大人の性のテクスト]では、オトナの世界に特化したセクシュアリティのトピックを書き連ね、投稿配信している。いうなれば、〈ここはオトナの性の話をするところだから、子どもは見ちゃダメよ、向こうへ行っていなさい〉ということ。興味のある方は、是非アクセスしていただき、性善・性悪両刀の飽くなき性の文化を堪能してみてはいかがかと思う。

 最近はテレビだって、やる時はやる。
 横浜流星さんが主役で、江戸期のある人物の大活劇を描いた大河ドラマ『べらぼう』は誠によろしい。こんなことをいっちゃなんだが、誰が決めたのか知らない、お茶の間でオトナもコドモも楽しめるNHKの大河ドラマ――の不文律をぶっ壊し、江戸期のオトナの世界をかなりどっぷりと描いていたりするのだから、やっぱりちょっと、お子さん方の身分では観ていられないはず。でも、ああいうオトナの目線はとてもいい。私の興味の範疇としては、大好物の部類である。

フーゾクの広告?

 さて先日、カゼヒカルのウェブサイトの「基礎知識編」で、「フーゾクの広告」というトピックを投稿した。

 フーゾクの広告って?

 その本文でも記しているとおり、タイトルの「フーゾクの広告」とは、性風俗業の広告――を意味している。早い話、性風俗業の広告にはそれなりに専門用語が連ねてあって、90年代前半のフーゾクの広告の中から、ならではのワードをピックアップしてみたのだ。とはいえ、このトピックは雑誌『宝島』(宝島社)1994年1月9日号の特集記事「セックスというお仕事にアマチュア女性大量進出!!」に拠っている。

 ここで敢えて取り上げるのは、その「フーゾクの広告」を投稿するにあたり、まずなんといっても基本の「フーゾク」という語を国語辞典で調べてみた際の、思わぬエピソードについてである。
 あまりにも驚いた。これはもう意外なことだ、としかいいようがない――ので、漏らさずそのことにふれておきたいと思ったのだ。

 いったいそれって何の話?

 大筋を先に述べておくと、群雄割拠の国語辞典界隈の中で、私自身が長年親しんできた三省堂さんの『新明解国語辞典』(第八版)だけ、“風俗”の項に“性風俗”(=フーゾク)なるものの語義が無かったのだった…。これ、本当なのです。

風俗とはなんぞや

 ちょっとその話をする前に、そもそも私自身が子どもの頃、「風俗」の意味をどう認識し、理解していたのだろうかということに、ふれておく。

 それがどうも、曖昧なものでしかなかった。
 どちらかというと、性風俗業(=フーゾク)を思い浮かべ、本来の意味のほうは、なおざりだったのではないかと思う。おそらく高校生くらいまでは、適切な語釈や語義を整理できていなかったのかもしれない。
 子どものうちに「ふうぞく」ということばを何かしら聞くことがあっても、どうもそれはぼんやりとしたもので、はっきりと何を意味しているのかわからなかったということ。「ふうぞく」という語の使いまわしが、子どもたちの会話やコミュニケーションの中に無かったからだろう。

 それに加え、こういうこともいえる。
 つまりオトナは、子どものいる前で「ふうぞく」=「風俗」ということばを使うのを、なんとなくためらってしまっていたのではなかったか。

 当然それは、フーゾク(=性風俗業)を連想させ、子どもたちに変に誤解されることを危惧したからだ。そういう「風俗」という本来の意味の語を、会話の中に挟んで用いるのを、避けておこうとする向きがあったのかもしれない…。
 しかるに昨今としては、「風俗」という語は、どこかよそよそしさを漂わせることばになってしまった感がある。オトナは、この語を使うのを基本的に忌避し、子どもたちもなんとなく近寄りがたいことばとして認識し、「風俗」を疎外してしまっているのではないか。
 おおよそ、奇行化して手の内に入らない語になってしまっている。「風俗」は――。いうまでもなく、隠語的な派生語の「フーゾク」がことばとして存在するからである。だからこそ今、それが曖昧なことばに思えるのならば、即座に調べるのが望ましい、と私は思ったわけである。

国語辞典で「風俗」を調べる

 「風俗」の本来の語釈に関しては、忌避するもなにも、小学生向けの辞典である小学館の『例解学習国語辞典』(第十二版)にもちゃんと出ている。

 風ぞく。風俗。
《むかしからおこなわれてきた、生活上のしきたりやしかた》。またもう一つの語釈はこう。《社会の道徳的な規律。ぎょうぎ。風紀》
 おそらく、小学6年生くらいまでにこの語を理解しているとしても、子どもたちの会話の中で、「ふうぞく」のことばが当たり障りなく使われることは、まず無いであろう。

新解さんにはフーゾクが無い?

 ともかく、私が調べたかったのはそちらの語義ではなく、別の語義であった。そう、「フーゾク」。
 そこで、三省堂の『新明解国語辞典』(第八版)を手に取って開いてみたのだ。すると、本来の語義以外のもう一つの語義には、「風俗営業」とあって、私は一瞬これだと思ったのだが、読めば以下のような文言だった。

待合・飲み屋・キャバレー・ダンスホール・ビリヤード・ぱちんこ・マージャン屋など客に遊興させたり、射幸心をそそる遊戯をさせる営業。

三省堂『新明解国語辞典』第八版より引用

 ん? この文言の中には、性風俗業を想起させるものが、無いではないか。

 ここに出ている「待合」(まちあい)というのは、要するに“芸妓さんとの待合”(=待ち合わせ、接待)を指しているかと思われる。このうちには、黙認の上で「一夜を共にする」というのも含んでいたりしていて、これが性風俗業に相当するとする面はあるにせよ、新解さんが示した「風俗営業」の語義の確固たる文言で、この「待合」一点に性風俗業を想起させよと促すのは、いくらなんでも無理筋である。
 ちなみに、「射幸」の意は、《なまけ者が自力で働かず、賭博やそれに類似の行為で一攫千金を夢見ること》とあった。

 ところが――。
 同じ三省堂さんでも、『三省堂国語辞典』(第八版)のほうには、「性風俗業」という語があって釈然とする。《性にかかわる営業》
 こちらも三省堂さんから出ている辞典であるが、『現代新国語辞典』(第七版)には、「風俗営業」という項があり、その中に、《性風俗関連特殊営業。成人にいろいろな性サービスを提供する営業。性サービス業》とあって溜飲が下がる。
 小学館の国語辞典である『新選』(第十版)にも、当然のように、《セックスに関するいろいろな商売》という語義があった。

フーゾクも世の風俗なり

 なぜ、新解さんだけは、「フーゾク」(=性風俗業)の語義を避けたのだろうか。かなり重大な手落ちではないのか。そこには大いなる疑問が残り、私はこれについての答えが見つからない。

 広く世の中の、人々の暮らしに密着したことばをことごとく網羅し、きめこまかくわかりやすく解説するのが、国語辞典の役目ではないだろうか。にもかかわらず、それ以前の問題として新解さんは、フーゾク営業も、そこで働く人々の影も、全て抹消した形になっているといわざるを得ない。
 これについては、三省堂さんはどう言明するのであろうか。

 しかしながら、同じ三省堂さんの他の国語辞典では当たり前に見られる語句が、新解さんだけ列記されない現象、あるいはそれを抱える事情は、敢えていえば病的な些末としかいいようがないのである。

 いま私は重箱の隅をつついていると思うかもしれない。新解さんの「風俗営業」の語釈で、《射幸心をそそる》云々も、今どき認められなくもない面はあるにせよ、この手の新解さんの解説が、やや時代に即していない向きがある点を、素直に認めて改訂したほうが良さそうではないか、と私は思うのだ。そうであることを期待する。

 風俗とは、世知辛い世の中の、香気と腐臭を混然させた姿である。
 子どものうちに、世の風俗には、大人たちが快楽として求める性風俗というものがある――ということを知らしめておくべきかどうか、それは教育というよりは教養の問題であるけれども、いつしかそれを認知し、やがて自己がその性風俗と向き合ってしまうのか向き合わないでいられるのかというこの世の無情さに、私は冷たく厳しい風を感じる。
 ランドセルを背負って可愛らしいリボンを付けていたあの子だって、いつしか化粧を際立たせてネオンの世界に生きてゆくヒトとなってしまうことも、現実のうちの一つなのだ。そこにはオトナの事情があり、それに向き合うか向き合っていくしかないのかのいずれかの自覚の中で、本当の風俗というものが身体を通り抜けていくのである。

 たかが文字のことだが、ふれないでおこうとする意向は、この世のことばの信用にも関わる問題だ。この世にあるものはあると示しておくべきこと。そのことを踏まえていない辞書は、正しき真っ当な辞書とはいえない。
 なかなか容認しづらいものが、風俗にはある。だがしかし――というところで踏みとどまって、真っ当に自覚すべきである。存在は勝手に消してしまわないこと。日本人はそれをフーゾクとカタカナに置き換えて、人々の暮らしの性の快楽を一形成している。それについては正しく認識しておくべきなのだ。

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