
悔やんでも悔やみきれないのは、この男の人を今まで「バグる世界」で一度も取り上げなかったことだ。誠実さの奇妙ないいがかりにおいては、福原愛さんと江宏傑さんの離婚離縁スキャンダルをしのぐ内容だと思うのだが、この不埒な男から、何を見出すかが問題なのだった。BE:FIRSTの元メンバー、三山凌輝さんのことである。
結婚詐欺疑惑の男
『週刊文春』(文藝春秋)2026年7月30日号では、こんな見出しで報じられていた。「水谷豊の愛娘・趣里を悩ませる三山凌輝と元宝塚花組トップ娘役“愛の不時着”愛」。《インフルエンサーとの一億円貢がせ騒動を乗り越え、昨年八月に結婚を発表した趣里と三山。翌月には子供も誕生した。ところが、彼は既婚女優と連日密会を重ね――》。
三山さんは2022年12月、インフルエンサーのRちゃん(アパレル会社社長・大野茜里)と婚約。1年近くの交際を経ての婚約だったらしいが、その前年の5月には別の女性との交際疑惑が浮上しており、この人――三山さん――の身辺では女性関係が慌ただしい。しかも婚約を決めたRちゃんには、なんと1億円を貢がせていたと報じられ、女性との愛憎劇とは程遠く、金銭に対する執着心のほうが強いことが判明する。なおRちゃんとの関係は2024年2月に終劇した。

翌年、主演映画(『誰よりもつよく抱きしめて』)が公表され、事務所を独立し、夏にはBE:FIRSTの活動も止まる。その夏、水谷豊さんの愛娘で俳優の趣里さんと結婚。秋には第1子誕生。11月にはBE:FIRST脱退。翌月、吉祥寺に料理店をオープン。翌年3月には新宿にも料理店をオープン。
この人――三山凌輝さんという人は、そもそも情愛の確たる芯を持たない“情緒的軟体動物”なのだ。それを情愛と呼ぶのもふさわしくないが、その揮発性がきわめて高いせいで、すぐに冷め、別の温いゆりかごに移ってしまう。子どもじみた情熱である。パートナーとの幸福感も長く共有できない幼稚な人。
前述した『週刊文春』の記事は、ミュージカル『愛の不時着』で共演した花乃まりあさんとのホテルでの密会の全容であった。ラブストーリーのミュージカルということもあって、初演日の打ち上げでの酒宴では、二人は仲睦まじく、“恋愛論”に酩酊していったようである。
冷たく乾き切った愛情を別の女性のもとで育もうとする魂胆は実に浅はかだが、花乃さんも既婚者であり、二人はわかりやすいほどに不倫の関係に身を投じていく――。
三山さんと趣里さんとの夫婦関係においては、親しい関係者がその内実を明かし、趣里さんが子育てに悩んでいる様子も記事に記してあった。夫は子育てをほとんどしない、朝帰りが日常茶飯事…。仕事で家におらずとも子どもには関心がない様子…。趣里さん自身もドラマの撮影が始まって、子どもを連れて“実家通勤”だったという。
三山さんの自宅マンションには、シアタールームというのがある。趣里さんが居ないのを好都合とし、そうした場所で三山さんは花乃さんと密会していたのだ。舞台の休演日では、自身の愛車に花乃さんを乗せ、新宿の高級シティホテルへと向かう。連日、二人は逢瀬を重ねていたのである。

反省しております
文春側がそれぞれの事務所に複数回の密会について質問状を送ったところ、回答があった。
三山さんの事務所の回答。
《舞台での役作りを目的に、二人で過ごす時間があったことは事実です。作品や役柄について理解を深めるためのやり取りと認識しておりましたが、不適切な行動であったと深く反省しております》
花乃さんの事務所の回答。
《舞台の役作りを目的として、二人で時間を過ごしていたことは事実です。役を深めるために必要なコミュニケーションと認識しておりましたが、結果として不適切な行動であったと重く受け止めております》
文春にも皮肉という毒がある。
記事の最後には、1億円貢がせ騒動で三山さんにインタビューをした際のコメントが掲載されていた。むろんそれは、趣里さんとの夫婦関係にあてた皮肉である。
《お互いがしっかり向き合うと決めたなら、その相手とできる限りの関係構築をするのが大事だと思っています。常に愛情を伝え、自分のベストを尽くしたい》

腹黒い男の終末論
快楽から快楽へ流れゆく男。三山凌輝――。
この構図を、一つの悪しきモデルケースとして私は考えてみたいのである。
三山さんのように、情愛の揮発性が高く、ほどなくして愛が冷めていく、あるいは流れ飛んでいってしまうタイプの男の人格性は、逆に興味深い。そもそもそういう人は、「愛が無い」のではないだろうか。
愛がなんだかわからない人。そういうものを内面に囲い込んだ経験がない人。家族との絆が薄い人…。
快楽に溺れがち――というのは、男性性の一種の性質なのだけれど、あまりにもそれが強いというだけで、堅い約束を反故にしたり、規範から外れた行動を取るのは、人として失格だと思われるのは致し方ないこと。しかし、芸能に生きる人間は、快楽と金銭への欲目への執着心があるからこその才能なのであって、そこに輝きがあるわけである。その輝きを否定することはなかなか難しいが、人様の不倫を肯定するわけにもいかない。だから、その手の男は、常に《終末》を抱えて生きているとしかいえないのだ。
さあ、そこから何を教訓に見出すかは、なかなか悩ましい問題である。
極端なことをいえば、男も女もみんな、程度の違いこそあれ「腹黒い」。腹黒さはあるが、それを一旦収縮させるのが、愛の効果であり愛情である。

2つの『アルフィー』
男が不埒で、次々と相手の女性が変わり、コンテンポラリーな関係に深まっていくという変則性の強いラブストーリーを描いた映画は、過去にあった。
私が好きなのは、『アルフィー』(“Alfie”)という映画。
1966年のルイス・ギルバート(Lewis Gilbert)監督の『アルフィー』は、ロンドンが舞台。主演はマイケル・ケイン(Michael Caine)。
名俳優であるケインさんが出演した『殺しのドレス』(“Dressed to Kill”)も好きだし、ジョン・アーヴィング(John Irving)原作の映画化『サイダーハウス・ルール』(“The Cider House Rules”)も好きである。が、やはりこの『アルフィー』は白眉。
もう一つ、『アルフィー』(リメイク版)がある。
2004年のチャールズ・シャイア(Charles Shyer)監督の『アルフィー』。
こちらはジュード・ロウ(Jude Law)さん主演。舞台はニューヨーク。ロウさんは私と同い年で、ロンドン出身の俳優だが、舞台はあくまでニューヨーク。
どちらもいい映画だが、主題歌の「アルフィー」はなんといっても初作のほう。バート・バカラック(Burt Bacharach)&ハル・デヴィッド(Hal David)の楽曲が断然いい。
断然いいという趣きがあるので、女たらしの主人公がなぜか悲哀に満ちた大人の男として格好良く思えてくるのが玉に瑕。だってそれは、三山さんと変わりないのだから。いや、本当にそうなのかどうかはわからない。
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だがしかし、男の《終末》的な不埒さや欲望のだらしなさも、映画となると“名作”として映えてしまうのだから、三山さんにそういうセンスがあるのかどうか、試されているのである。
それは厳しい試練である。そういう険しい道を選んでしまったのだから、仕方のないこと。常に《終末》を抱えて生きていくしかないのだ。女性の敵でありつつ、女性が男性に甘すぎる現実というのがある。
この手の話は、尽きることがない。
こういうことでもある――。
ひとこと女性が三山さんに、「あなたのアレって、小さくて大したことないわね」といえば、たちまち彼は自信を喪失してED(勃起不全・勃起障害)になるだろう。おそらく彼の快楽性の強さはそこで終止符が打たれ、以後彼の性欲活動はほとんど枯れたものとなるだろう。
女性が優しすぎるから、男は自惚れる。あるいはそういえないだけの素晴らしいイチモツを、彼は所持しているのだろうか。
憎い男。腹黒い男。
いくら女性が、男に向かって地獄へ落ちろと念じても、こういうタイプの男の末路というのは、案外地獄には落ちないものなのである。それよりも先に、男への愛情が再燃してしまう恐れがある。男には愛がないが、女には愛情がある。不条理だけれど、それが男と女の関係なのかもしれない。
理知的で潔癖で完璧な男よりも、優柔不断でだらしない男のほうがモテる――というのが、この世の定説なのである。だから女は常に不幸を選ぶ。
男のだらしなさは、けっこう強力な媚薬なのだ。映画を観てもそう思うが、古今東西でそうなっている。
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