しあわせを見つけるということ―オフライン女子の話

【しあわせの折り鶴という願いを込めて…】

 ある文学雑誌の広告の中で、映画監督の宮崎駿氏の著書からの引用文に出合った。以下、書き出してみる。

児童文学というのは、「どうにもならない、これが人間という存在だ」という、人間の存在に対する厳格で批判的な文学とはちがって、「生まれてよかったんだ」というものなんです。生きててよかったんだ、生きてていいんだ、というふうなことを、子どもたちにエールとして送ろうというのが、児童文学が生まれた基本的なきっかけだと思います。

宮崎駿『本のとびら』より引用

 それについてこの本の中では、《「子どもにむかって絶望を説くな」ということ》とも述べ、《ふだんどんなにニヒリズムとデカダンにあふれたことを口走っても、目の前の子どもの存在を見たときに、「この子たちが生まれてきたのを無駄だと言いたくない」という気持ちが強く働くんです》とも述べている。

飾りじゃないのよ孤独性は

 私はその生きることの《絶望》や《無駄》ということばにふれた時、オフライン女子のハナコさんを思い出した。ハナコさんについては、以前書いた(「〈再録〉トモダチってなんだろう?―オフライン女子の話」)。
 40代の独身女性。親兄弟はいない。友達も恋人もいない。アパート暮らしの天涯孤独。また彼女は、アルコール依存症なのではないか――という懸念についても書いた(「アルコール依存とオフライン女子のこと」)。

 物事に意欲的でないことと不健康。その因果関係。
 実をいうとハナコさんに関することの大きなテーマは、そこなのだ。その2つが、親しさのつながりが生まれない原因であり、近い将来起こりうる病気のリスクを抱え込むことになるのだ。

 あれから1年以上が経つ。
 天涯孤独を解消しうる「自己革命」=「人との関わり合いを深くすること」と「生活改善」がハナコさんに見られたかというと、残念ながらそういう傾向は皆無だったようである。
 親しさのつながりが生まれない…。しかるに、LINEで友人・知人と通信したり、休日に友達と食事に行ったりする経験がゼロのハナコさんについて、《相手を気遣いすぎて、社交辞令で事を済ませてしまう》と私は推論を述べた。
 しかしどうも、この見解は間違っていたのではないか――。そのことについて、ここから述べていきたいと思う。

【遊ばれなかった風船の束ほど悲しいものはない】

忘れられた存在の風船

 袋に入ったまま、一度も開けることのなかった萎んだ風船が、置き薬の箱の中にあって、私はその記憶が目に焼き付いている。

 赤い風船と黄色い風船――。

 子どもの頃はもらった風船が愛おしく、必ず膨らませて遊んだものだが、物心がつくと、風船遊びにときめかなくなり、置き薬を利用する生活の一部の、それもごく些細な贈呈品にすぎないことを悟ると、風船の価値はたちまち失われるのだった。
 ある小さなコミュニティの中においても、萎んだ風船のまま、箱の片隅に忘れ去られてしまうような存在が、オフライン女子のハナコさんなのだと考えられる。彼女の人生の時間は、もしかするとまだ、平成期だとか昭和期を流れているのかもしれなかった。

 人との対話を、社交辞令で済ませてしまっているのではないかという話のことだけれど、私がそうではないと気づいたのは、彼女は「他者との対話」というものを、まさに風船を膨らませて遊んだあの楽しげな瞬間になぞらえてそれを「全く経験していない」か、あるいは「遠い昔に忘れてしまっている」のだと思ったからである。
 それが気遣いによる無益か有益かではなく、そこに到達しうるかどうかの一手に踏み出すことなく、置き薬の置き忘れた風船のように、自分自身が無価値を鵜呑みにしてきたからではないのか。風船に空気を入れた後に始まる、ふわふわと空中を漂うファンタジックな気持ちの良さを、その一連の行動として体験したことがないか、忘れてしまったかだ。

 しかもそれは、「他人より自分が愛おしい」という無意識の働きから、他人のちょっとしたミスや不手際に笑い、顔を真っ赤にし、本来なら対面で分かち合えるはずの心持ちと一体感がなく、まるでスイッチがONにならない無灯火で不人情な態度に、人は彼女の冷淡さを感じ、彼女もまた「空中に漂う風船を見ようともしない」自分自身の無行動な孤独さに、結局は心が喘ぐだけなのである。
 こうした凄まじい孤独さに喘いでいるもの、すなわち表面的な自分のペルソナを守り通すための力は日増しに硬化し、社交的な態度を示さないことにつながってくる。だから、人は、すっかり大人になった後の無惨なハナコさんの孤独さを、「近寄りがたい存在」に追いやってしまうのであった。

【どうあがいたって所詮折り鶴は折り鶴だけど…】

何事にも意欲が湧かないということから

 例えば昼食休憩――。
 ハナコさんは定時に食堂に行き、持参してきたカップ麺を、全く短い時間に平らげる。食べ終わって、別の場所の椅子に座り、体を休める。うとうとと眠りだす。このあたりの所要時間は、大体20分だ。むろん、誰とも会話はない。
 やがてハナコさんはゆっくりと立ち上がり、職場の定位置へと向かう。午後は、仕事が終わって定時に送迎バスに乗り、私鉄電車で2つばかり駅を越したあたりで降り、さらに市内周回バスに乗って帰宅。
 ここまでの時間帯が、彼女にとっての1日における最活動期に当たるのだが、この間の、挨拶程度の他者との会話時間は、わずか5分にも満たないかもしれないのであった。

新しさを求めない自分

 こうしたことを私が言語化してみても、そこから生み出すものがないことにも気づかされる。オフラインであること、友達がひとりもいないことは、やはり寂しい生活だとしかいいようがない。私はそれを、これまで否定でも肯定でもない中立な見解で見納めることにしていた。しかし…。
 彼女はどうも、他者どうしの親しさのつながりに、やきもちを焼いている――いい換えると、強い執念を抱いているようだ。
 そういう態度が見受けられる――。やきもちを焼くが、結局、自分にとって不都合な自分を見ないことが、この悋気(りんき)から逃れられない原因であることを咀嚼して学んでいない。自分の中で、〈いったい何を新しくしていけばいいのか〉という沸き立つような発想がないのだ。

 これらの言語化を意味のないものにはしたくない。
 あくまで反面教師として考える――。私自身、生きることの《絶望》や《無駄》を全く考えてこなかったわけではない。

私自身の経験から

 今年の春、仕事関係の人と、ちょっとしたいざこざがあった。そもそも大の仲良しであった。
 そうしてある日、やりとりの中での“あることば”の使い回しで誤謬が生じ、〈この人とは友達ではなかったのではないか〉、〈勘違いだったのではないか〉という懐疑的な気持ちに見舞われる経験をしたのだ。

 それから数週間後、私は半ば諦め、もう互いに友達関係であると認めなくてもいいのでは…と判断して心を落ち着かせることにした。
 しかし、事は意外なほうに進展していった。やがて元の鞘に収まったのである。お互いの態度が、自然な形で、むしろ離れることよりも近づくことに赴いていったのだ。過去のいざこざは、ほとんど無形な些末に浄化していった。

風船が目の前にあるのであれば

 そこに萎んでいるだけの風船があり、胸いっぱいに力を込めて空気を入れれば、膨らんでいく。そういう想像はできるだろう。
 実際にやれば、たしかに多少、息が苦しいかもしれない。疲れるかもしれない。面倒かもしれない。だが子どもの頃は、そんなことを考えるより、率先して風船の夢心地に向かって力を込めたはずだ。風船はふわふわと空中を遊泳し、見ているだけでも心が和んでくるあの思い出…。

 そんな体験を、オトナであるハナコさんが全面的に否定するのであれば、何もかも物事が始まっていかないのも無理はない。ボタンがあっても、それを押さないのか。風船が目の前にあっても、一つくらい膨らますこともしないのか。できない私。しない私。いくら他人の幸せそうな姿にやきもちを焼いたって、自分が何も動き出さなければ、自分の実体験とはならないのだ。なぜ私は動かないのか、ということにもっともっと懐疑的にならない自分は、どうかしているのではないか…。

 それに気がついてほしい。
 そんなことを、反面教師として私自身も考える。
 友達がいない世界は、私にとって暗黒といい切ってもいい。何かについて語り合える友。何かについて支え合える友。一緒に過ごしてきた時間の思い出。どれもこれもかけがえのないこと。これからも一緒に過ごしていくことを願う愛おしい気持ちが生まれる。
 真の幸福とは、そんなところにあるのではないか。お互いに傷つくこともあるかもしれない。しかし、やがてそれは修復されていくだろう。友との関係においては、それも浄化作用の一つとして起こるのである。相手を頼りにする。相手の心と体にふれていく。日々の積み重ねが、それ自体が幸福と思えてくるはずだ。

 どうあがいたって、風船の形(様態)を変えられるのは、いや人生を塗り替えることができるのは、それを考える自分だけなのだ。ハナコさんの生きている姿が、結局は誰しも反面教師として映る。《絶望》や《無駄》を考えてしまう。逆説的であるために、このテーマは置き去りにできないのだ。

 日々の辛さはいつか、しあわせに結びついていくだろう。私はそのことを信じて、前へ向かって歩いていく。
 誰かと一緒に、前へ向かって。前へ向かって――。

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