
私が敬愛する作家・開高健氏の書き物で夢中になったのは、小説よりもエッセイ(随筆)のほうで、記憶をたどれば、珠玉のエッセイ集の『開口閉口』(新潮文庫)だったはずである。
初めて読んだ時は、ベトナムの記述が多いという印象だった。彼はベトナム戦争下の昭和40年に南ベトナム政府軍に従軍した経験があり、またそれをもとに長編小説『輝ける闇』(昭和43年)を上梓している。
『開口閉口』の中の1編で、「毛髪引金や夜の箱や小さな死など」は、彼が特筆する“猥雑な語の含蓄”に富んでいて大変面白いのだった。
辞書を買って読みなさい
開高さんは、その自身の執筆活動の日々において、どうにもこうにもダレて何もする気がない時は、辞書をひらいて読むのが最適だ――と述べる。
ちなみに私の工業高校1年時の国語科の先生は、やはり同じようなことを生徒たちにいっていて、「辞書を買って読みなさい」ということを教えてくれた。
そのことを私なりに解釈すれば、なんでもいいから本が読みたくてムズムズするのなら、まず辞書を手元に置け――ということなのである。それが読書家の作法であり、読書家の規定事項である。だから、なるべく良質な辞書を買って用意しておく必要がある。
さらに大人の読書家なら、テーブルの上に良質な酒を用意しておくべきかもしれない。
ともかくその国語科の先生は、端的に述べていた。
「イワナミの辞書を買いなさい」
イワナミ――。目が細くて背の高い中年の、たいへん真面目な先生であった。
私はその誠意ある“訓告”を、忠実に守った。すぐに書店に行って、『岩波国語辞典』を買ったのだった。先生と同じくらいに、生真面目な辞典だった。家には他の国語辞典があるにはあったが、私が買った『岩波国語辞典』は、自立して「書く」ことの志として、国語辞典というものとの尤もらしい逢瀬といえた。ちょっと恥じらいがあるのだ。
そうはいっても、辞書のたぐいは子どもの頃から好きだった。幼年時代に“学研の百科事典”を好んで眺めていたということもあって、あの先生の“訓告”は武者震いするほど功を奏した。
たいへん無礼で恐縮するのだけれど、先生の名前はもうぼんやりとしていてはっきりしない。なので、はっきりと、“イワナミ先生”と呼ぶことにしている。

『アメリカ俗語辞典』
開高さんがそのエッセイ「毛髪引金や夜の箱や小さな死など」の中で述べ、高く評価していた辞書がある。それは、“某社の米俗語辞典”であった。
私も真似をして、それを探し出して買った。
“某社”となっていたが、おそらく研究社が発行したユージン・E・ランディ編著/堀内克明訳の『アメリカ俗語辞典』(“The Underground Dictionary”/昭和50年9月初版)のことではないかと思った。
開高さんはその本をこのように批評する。
某社の「米俗語辞典」は出色の出来栄えであった。キリキリと角のたった、泣いてない氷ばかりで仕上げたマーティニのように新鮮で、ピリピリし、しかもあちらこちらに深さが顔をのぞかせている。セックスや麻薬関係の隠語辞典は他に何種類もあるが、わが国で訳されたものとしては現在のところこれが最高だろうと思う。
開高健著『開口閉口』より引用
早撃ちガンマンから黒い紐まで
開高さんは猥雑な俗語をつらつらと書き出す。
“ワイアット・アープ”。
男性の悩ましい「早漏」のことを、“ワイアット・アープ”というのだという。
私はニンマリとして、ワイアット・アープの顔を思い浮かべようとした。いや、どんな顔をしているのかわからなかった。まさか、映画でワイアット・アープを演じたケビン・コスナー(Kevin Costner)を思い浮かべるわけにはいかなかった。だが実際、本物の彼の肖像画を調べて見てみると、気骨の文字を飲み込んで黙り込んでしまったかのような精悍さで、口髭がえらく誇張していた。
開高さん曰く、《早射ち必殺の名人》のこの場合、英雄視されるのではなくて、“気の毒な男”ととらえられる。だが本当に気の毒なのは、ワイアット・アープ本人ではないか。

そんなのがあの辞典――『アメリカ俗語辞典』――に載っているのかと思って、私は本を開いて探してみた。“Wyatt Earp”(ワイアット・アープ)を――。
ところが、そんなのはどこにも無かった。
Wの後ろのほうで、“wrinkle room”という語があった。《年をとった同性愛者がよく出入りするゲイバー》。これは今でも通用するスラングで、エイジングケアのクリニックからもじった軽蔑かつ自嘲的表現である。
繰り返すが、この辞典には“ワイアット・アープ”は無い。
早漏の意の“premature ejaculation”も探してみた。
実はこれも見つからない――。日本語から逆引きができればいいのだが、この本にはそういう機能はない。
幾十も並んである語で目に飛び込んできたのは、“prick teaser”だ。
《性交をしたがっているようで実際はしない女…じらし屋…ちんじゃらし、ひっかけ屋》
男性のアレを弄りたがる女のことだが、性交は断固拒否という態度を示す。なので、早漏とは全く関係ない。
男も女も常に軽蔑の対象であるということ
Wのほうを見ていて、これは!? と思ったのが、“wolf”。
よく映画などで、なんとかウルフなんていうタイトルがあったりするが、直訳すればオオカミのこと。しかし、スラングとしては、凄まじい男の軽蔑的な意味が含まれているのに驚く。遊び人、アニマル、色きちがい、淫獣、エッチ野郎、エロ男、すけべ、すけべったれ、セックス狂、どすけべえ…。
ところで早撃ちガンマンは、文字通り、早くガンベルトのホルスターからガンを抜く技に長けている男を指す。そしてそのためには何より、トリガー(trigger/引き金)を軽くすることが大事だ。
なので工夫をこらし、トリガーにちょっと指が触れただけで発射できるようになった技巧人を、開高さんはこういう。
“ヘアー・トリッガー”(hair trigger)。
これもスラングとしては、「早漏」気味である“気の毒な男”のことを指す。ただしこれも、『アメリカ俗語辞典』には載っていない。
“hair”…をどんどん探していくと、こんな語があった。
“hair burger”(ヘア・バーガー)。
これはいったいなんのことか?
ヘアは毛。バーガーはハンバーガー。
ハンバーガーを思い切り食べたくなる衝動は、日本人の皆さんも経験あると思うが、アメリカ人はもっと猥雑で貪欲。ここで「食べる」が想起されているのは、口による性器愛撫のこと。毛の生えたハンバーガー。つまり“hair burger”は女性器のことを表していて、膣、女性の陰部のスラング。
こんなのを見つけようと思えばキリがない。『アメリカ俗語辞典』は秀逸な俗語辞典として知られており、ネット上でも面白がっていくつか猥語が挙げられている。
“dingle berry”。
クリスマスのジングルベルでは決してありません――。
生い茂った木立の谷間には、可愛らしいベリーの果実が木になっている。いやいや、そんな可愛らしい光景ではなく、『アメリカ俗語辞典』によると、《肛門の周囲の陰毛についている糸くずとふん》。又は《おろか者》。アメリカ人のスラングとしては地に足がついた汎用な語であり、役に立たない間抜けな人――という侮蔑的な表現なのである。

連想、それは黒い紐から蟻の門渡りへ
こんな、人を小馬鹿にした侮辱的な辞典を面白がるには、それなりに強いお酒が必要と思われ、私はバーボンを飲みながらこれを読んだ次第である。じりじりと微醺を帯びてきて、アメリカ人の伝統的なスラングが快活に感じられてくるから恐ろしい。
で、結局、「早漏」は早漏で、「遅漏」のことをどんないいまわしでいうかというと、開高さんが挙げているのは、“ロング・フューズ(long fuse)”だった。
長い導火線(黒い紐)。
なるほど。泌尿器科のお医者さんとの会話の中で「私は遅漏でして…」と表現するよりも、「私は長い導火線を用いているため引火するのに少々お時間がかかってしまいまして…」と謙遜したほうが知的。いや、そんなわけはない。しかし、病んでいる感じがしないのがいい。これも例の辞典からの引用ではないことを断っておく。
エッセイ「毛髪引金や夜の箱や小さな死など」では、そのほか、“夜の箱”や“小さな死”のスラングの話が出てくるが、楽しみを取っておくためにここでは割愛させていただく。ぜひ『開口閉口』を読んでいただきたい。
おっと、忘れるところであった。
実をいうと、この「毛髪引金や夜の箱や小さな死など」の文末で、開高さんはぽつりとその語を、付け加えている。
「蟻の門渡り」(ありのとわたり)。
これに連なる1編が、『開口閉口』の「たくさんの蟻が門を渡ると」であり、13年前に私はこの俗語をちらつかせたのである(「〈再録〉開高健『開口閉口』―アリ釣りとオスとメスの話」参照)。
ところが最近私、とんでもない勘違いに気づいたのだった。
もうずいぶん昔から、“蟻の門渡り”が何を指しているか、間違って覚えてしまっていたのだ。そのことに気づいたのは、つい先月のことである。
――というところで、この話を閉じなければならない。
“蟻の門渡り”については、かなり具象的な猥談になってしまうので、秘めたる別稿に譲ることにする。興味のある方は、「人新世のパンツ論〈花鳥風月編〉⑰蟻の門渡りという穴賢の背後関係」をご賞味あれ。
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