
デビュー作『桐島、部活やめるってよ』や『正欲』で知られる作家・朝井リョウさんが、このところ「男性学」というワードを多用して、その関心と文脈を押し拡げていることに留意し、私も以前から関心を強めていた、「男らしさ」への疑問と懸念についての考察が、朝井さんのそれと同床異夢であるのかどうか、検証してみたくなったので、ここでそれを書き記すことにする。
フェミニズムから見えてきたもの
朝井さんが「男性学」について、明らかに関心を示していたのは、『週刊文春』(文藝春秋)2026年3月26日号の「私の読書日記」だった。ちなみに、「私の読書日記」は、著名な6人(酒井順子、鹿島茂、瀬戸健、吉川浩満、橋本愛、朝井リョウ)の交代執筆形式の連載コラムである。
その回のタイトルがこう。「男性学の打ち出し方」。
率直に「男性学」に関心がある旨の表記にすればいいのに、わざわざ“打ち出し方”なんていういい回しをするのが、朝井さんの言語表現のうまいところ。ヘタをすれば、どんな意味かわからない、雲を掴むような表現とも思われるのだが――いいたいことをそう記すには、それなりの理由がある。
朝井さんはこの回で、3冊の本を紹介している。
- キャサリン・ロッテンバーグ(Catherine Rottenberg)著『ネオリベラル・フェミニズムの誕生』(河野真太郎訳・人文書院)
- 杉田俊介、西井開、川口遼、天野愉著『名著でひらく男性学 〈男〉のこれからを考える』(集英社新書)
- 大前粟生著『物語じゃないただの傷』(河出書房新社)
彼の文脈からすると、1冊目の『ネオリベラル・フェミニズムの誕生』が、けっこう読後感的に強力だったのではないかと推測する。
先にいろいろと補足させていただく。
女性を推していくということ
フェミニズムを語るのに必須用語ともなっている“エンパワメント”(empowerment)。私の知る限りにおいては、エンパワメントに比肩する日本語を、私の10代及び20代の前半までに、身近はおろかメディアを通じて聞くことはなかった。私が無知なだけだったかもしれない。しかしその時代、まだ「女性をエンパワメントしていこう」なんてことをいう人は、やや反感を買われるのがオチだった、気もする。
むろん21世紀の現代社会において、ネオリベラリズムとエンパワメントは互いを揺さぶり続けるための呪文のようなものとなり、強いていえば日本では、細々と、「男女平等推進」とか、「社会への女性参画を促す円卓会議」みたいないい回しであったように思う。これは少なくとも、私が住んでいる地域の、片田舎において見受けられた話ではあるが――。
旧来のフェミニズムを脱却して――というのを前提としながら、女性をエンパワメントしていけばいいのではないかという機運が起こり始めたと実感する1990年代以降、社会的な現象としてぽつぽつと聞かれたのが、相対的な立ち位置にある「男性学」ということばであった。
個人的な感覚でいうと、家父長制がはびこる男性優位の学歴社会の中で、その競争原理に背いた、あるいは退いてしまった男性側の、小さくうずもれた立場感――といった印象があって、とくに団塊ジュニア世代のような多数の負け組の、「疎外されたゾンビとしてどう生きていくのか」的な、密かなフィールドワークのようなもの、それが「男性学」ではないかというとらえ方であった。
もっと簡単にいって、究極的には、負け組の男性を癒したり励ましたりしてくれる分野かも?――と、「男性学」を崇めたような気もする。
「男らしさ」への疑問
しかしながら当然、フェミニズムのようには蜂起しづらく、あくまで最大級に女性をエンパワメントしていく風潮の中で、それをネオリベラル・フェミニズムを推しているのは明らかに勝ち組の男性たちであり、富裕層の余裕派の人たちでしょ? という認識であったし、また勝ち組どうしの男女がさらに愛を深めていくであろうことは、容易に想像できたのだった。
だから、よりいっそうミジメに感じたのが「男性学」であり、いったい誰のための「男性学」なのか疑念が生じ、さらにそこからじわりじわりと湧いてきた別の疑問が、「男らしさ」とはいったいなんだ? だったわけである。
突き詰めていくと、男性が男性性をひたすら省察する「男性学」とは、フェミニズムを煎じ詰めるのとほぼ同じであり、同じでありながら、蜂起できない難点があった。
朝井さんが暗に示しているように、男性学の本質は、フェミニズムの台頭と浸透がまず歴史的にあり、そこから打ち出してこない限り全く見えてこなかったものが、「男性性に対する懐疑的懸念」であるというところの、「男性学」なのである。
話を朝井さんの本文の要約に戻す。
労働の主体的労働者は男性だった
フェミニズムは、男性優位社会が女性を差別していることを訴え、その改善を求める言論や運動を指し、戦後の長い歴史の中でそれが概ね示されてきた。
ネオリベラル・フェミニズムの骨子は、女性のキャリアアップを促進し、新自由主義の男女対等もしくは女性の勝ち組を広げようという主張であり、このことについて朝井さんは、新しいとらえ方として、女性の資本主義的競争の拡張が、構造の問題を個人の努力目標にしているだけではないかというロッテンバーグ氏の著書の視点に気付かされたと述べる。
すなわち、ネオリベラル・フェミニズムの安直な答えを導き出すと、それはエンパワメントそのものであり、それに失敗した、脱落した負け組は、もはや先述と同じ理屈となって「女性学」にしがみつく、という未来の光景が目に浮かぶ。いったい誰のためのフェミニズムだったのだろうかと、歴史的蜂起が吹き飛んでしまうわけである。
やらなくていい役割の犠牲的疑念
朝井さんは2冊目の本『名著でひらく男性学 〈男〉のこれからを考える』の中から、印象に残ったテクスト(日本兵と従軍慰安婦について論じている彦坂諦『男性神話』をテーマにした章)を批評し、こう述べる。
男性のほうが平均賃金が高い今の社会構造では、どうしたって男性側に労働の比重が傾く。平均賃金が高いというのは犠牲性に換算されにくい事実だが、家庭や地域で過ごすべき時間や果たすべき役割を労働に奪われているという点では、被害者でもあると感じる。
朝井リョウ「男性学の打ち出し方」より引用
フェミニズムの観点では、それまで女性に特典(利点)が付けられていなかったことが挙げられ、それを付けていこうじゃないかという構図が見える。
だが男性の場合、もともと特典がまんべんなく付けられており、女性よりも優位である以上、やらなくていい役割については議論の余地もなかった。むしろそこを掘り起こして、やらなくていい役割について真剣に考えてみたい、やってみたいと思う男性は、労働の比重の壁にぶち当たることになる。犠牲性がつきまとっていたわけである。
ある男性は考える。私は家事や育児をもっとしたいのに、労働時間が長く賃金が高めになっているから、それがしづらい。何もやらなくていい役割まで手を出す必要はないかもしれないが、私はそれでもやりたい…というより、何かこの構造はおかしいのではないか。
この男性のように疑念を持つ者は少数だったため、社会はこれまで、何の手打ちもしてこなかった。
朝井さんはこういう。
あらゆる観点における男女平等の実現は、今多くの男性が知らず知らずのうちに強いられている犠牲に見えない犠牲を軽くしうるかもしれないという言説は、もっと広まっていいと思う。
朝井リョウ「男性学の打ち出し方」より引用

身体から男性性を考える
『文學界』(文藝春秋)2026年4月号においても、朝井さんは果敢に「男性学」の見地で身体性を論考している。
テクストは、「身体を記す」の最終回で、朝井さんのこの回では、「オンコ」というタイトルが付けられていた。
それは、こんな話。
バレリーナ芸人の松浦景子さんの動画チャンネルに、バイク川崎バイク氏が登場。彼の足の甲は、《バレエをしている者ならば喉から手が出るほど欲しくてたまらない形状をしている》らしい。いわば、バレエに関して天才的な身体を兼ね備えているバイク氏を見て、朝井さん曰く、
私はつくづく、人間の身体とはそのとき所属している世界との関係性によってその意味を大きく変えるのだと痛感する。そしてその感覚は、特に小説を書いているとき、頭の中で強く光る。
朝井リョウ「オンコ」より引用
どういうことか。
朝井さんは小説を書くうえで、自分とは異なる性の人を登場人物にする際、その人の身体と世界との関係性を重視するようにしているのだという。厳密にいうと、ある身体とその世界との関わりを重視していくことで、そこに現れる人物が作者と同じ性か、異なる性かが決まってくる、ということなのだ。
その情報の身体(身体的データを持つ身体)が、どんな役割を担わされる構造の世界であるのかを考える、というのである。
わかりやすく説明すると、こういうこと。
このキャラは女性にしよう、女性だから、可愛いリボンをつけて、お化粧をして、週末に渋谷のカフェバーで好物の甘いタルトを食べることにしよう――と設定して書いていくのではない。
この人は頭にリボンを付けるのが好き。普段は化粧もする。週末はカフェバーで甘いタルトを食べるのが好き。こんな人が、普段どこでどんな仕事をしていて、どんな人と出会ってどんな会話をするのかを描いていくことによって、逆に最後の最後で、その人のセクシャリティが見えてくる、あるいは感じられる、といったもの。
こうした解釈は、ここでは全く余談になってしまうけれども、朝井さんの小説技法を少し垣間見た気がする話であり、ちょっと参考になった。だからああいう文体になるのか、と私は感心した。

女性よりも「大きさ・強さ」が平均的に大きい・強いということ
女性は妊娠・出産の役割を担わされる個体であるのに対して、男性は、女性よりも筋肉量や身体のサイズの平均値が大きい側であり、丈夫な個体として担わされる側でもあるが、《国の構造を設計する立場の大半を健常な男性の身体の持ち主が占めている》こともあり、生理用品(の無償配布事案)や緊急避妊薬(の市販化推進)をめぐる事柄は、男性の不自由さに関わる話だったら、もっと迅速に構造改革されていたのでは、朝井さんは指摘する。
朝井さんが学生時代に携わっていたダンスサークルで、女性の身体のしなやかさが強調される「ワック」というダンスに挑んだところ、その界隈では私の「筋肉量や身体のサイズの平均値が女性よりも大きい身体」が異形の存在であり、それ以外の人が全て女性の中で、自分の身体がいかに目立つか、認識したらしい。
男性の「筋肉量や身体のサイズの平均値が女性よりも大きい身体」では、表現するのがなかなか難しい動作が「ワック」にはちりばめられていて、動作の歪さが表象化され、自身のパフォーマンスが異形であることを認識させられた――。逆にこの感覚的認識こそが、一般社会で感じているであろう女性の「生きづらさ」の、男性側への感知につながるエピソードとして頷ける気がする。
違う型の「多様な性」と共生していくこと
社会の型が、ほとんどの男性に違和感を与えないよう工夫がなされた構造になっていて、そのことに男性は無頓着であり、常識然として見過ごしてしまっているように思われる。
いくつもの多様な型(=多様な性)があること、多数側は異形ととらえてしまいがちなそれ以外の型の必要性や活用性の改善に、目を向きにくくしてしまっていること。そうした厳然たる社会の反駁が、いわば歴史的なフェミニズムの蜂起であった。
ネオリベラルなフェミニズムのあり方を、資本主義的な価値観の利益率になるべく換算して肯定し、やや時間が経って女性の組長や上司が増えていった時、男性は奇妙な違和感を覚えたのだ。
それは、〈こんなはずではなかった〉という意味の、それではない。男性性の非可逆的本質は、型通りでないものを与えられた時の脆弱性や不安感がハンパではない――という不穏さを秘め、これまでとは違った社会機構の脱落感を味わうことになる。
ここにいうなれば「男性学」という甲冑、もしくは理論武装しなければ、生き永らえなくなってしまった男の行方が乏しい。さあ、男はどこへ向かうというのだ?
「男らしさ」ていったいなんだろう。
こうしてこれはついに、私の近年の指針的なテーマとなっていったのだが、あらゆる稿で論じていくことにする。
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