ありったけの文学散歩

【机に向かい、一冊の本を読み始める。本に向き合えるのは実にありがたいこと】

 これはとりとめのない私の文学散歩である。あちらこちらに文学の話が飛ぶ。それにかまわず翼を付けて飛ばせてみた。

チェーホフからフタバテイ

 若い人が、アントン・チェーホフの『桜の園』の戯曲を好んで上演することなんてあるのか、という疑問を呈して裏返したのが、中原俊監督の映画『櫻の園』(1990年公開)だった。映画の中で登場する女子校の演劇部は、毎年高校の創立記念日にチェーホフの『桜の園』を上演する。演劇部員の彼女たちは、確かに一応、真剣な心持ちでその上演に臨むが、半分か、あるいは4分3くらいの内面では、チェーホフが書いた戯曲の『桜の園』っていったい何? とおぼつかない感じで、それは演劇をよく知らない観客にとっても同じ心境だったりして調和が取れていた。

 サクラの咲く5月、南ロシアにある屋敷に戻ってきた女主人・ラネーフスカヤは没落する家に対し、頓着がない。出迎える商人の男ロパーヒンは、この広い領地を分割して別荘地として貸し出しなさいと進言するが、聞き入れない。

 書いた本人が、“これは四幕ものの喜劇だ”といっているのだから、それは喜劇なのだろう。
 しかし、多くの人がこれを悲劇だ――ととらえる。いや、そうじゃなくて、“これは喜劇なんですよ”と口を酸っぱくしていうチェーホフの眉間のシワを、私はつい想像してしまうのだけれど、なかなか難しい。あの名俳優・宇野重吉さんだってこりゃあ難しいよ、と述べている。ロシア語の解釈が実に難儀だったようである。

 私自身、若い頃とは違って、もう演劇について語ることはすっかりなくなってしまった。思い入れがもうない。例えば、懐かしい『ワーニャ伯父さん』などについてふれる機会も気勢もない。中原監督の『櫻の園』を観ることだってもう無いんじゃないのか。
 昔の我が家に、ロシア演劇・ロシア文学の『アンナ・カレーニナ』の本が置いてあって、私が幼少の頃、興味本位でそれの函から本を取り出し、難しくて読めない字を眺め、なんともなく心地良い時間を過ごしたことがあったが、二葉亭四迷の本が家にあったかもしれないと、ふと思った。

ゲンブンイッチタイ

 こんな思い出がある。

 小学6年生の時、昼休みに図書室へ行くと、クラスメイトの何人かが集まって、文学三昧の話をしていた。私も途中から仲間に入れさせてもらった。

 ――けれども、語る話がすごすぎて、私はついていけなかった。
 最初、盛り上がっていたのは、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』。これはその頃、偕成社の「日本の古典文学ジュニア版」が出ていて、福田清人著である。
 それから、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』。これも偕成社のジュニア版。
 同じ偕成社でも、「ジュニア版日本文学名作選」には、福澤諭吉の『福翁自伝』が出ていた。

 馬琴に十返舎に福沢諭吉の話題ときて、ここからは、図書室にも置いてなかった本の人たちの名が出てくる。坪内逍遥の『小説神髄』。これは岩波文庫。そして二葉亭四迷の『浮雲』。そのあと、森鷗外の『舞姫』だとか、尾崎紅葉の『金色夜叉』の話に移る。
 そういえばその頃、私はあまりよく知らずに、二葉亭四迷のことを「フタバ・テイシメイ」と呼んでいて、特段、誰も気づかなかったので笑われもしなかった。本当は「フタバテイ・シメイ」である。本名は長谷川辰之助。

 結局そのクラスメイトたちは、いわゆる「言文一致体」にかかわる、江戸から明治への文学的ポストモダニズムについて語っていたのだった。ある種の気概があった。〈オレたちはファミコンなんてものやらねえよ〉。そういうアナログ派の意地ではなかったか。
 そう、「言文一致体」。

〔明治初期に起こった〕文章を書くとき、文語の文体によらず、できるだけ口語に近い形で書く〈こと/運動〉

『三省堂国語辞典』第八版より引用
【そういやああんまり漱石の話はしなかったね】

 私が持っている二葉亭の『浮雲』は、昭和45年刊の古い新潮文庫版であったので、小さな活字で読みにくく、そのうち読むのが億劫になり、匙を投げた。
 Amazonのサイトで、新しい『浮雲』を買ってみるかと胸を躍らせる。おお、これは角川文庫の小洒落た装幀だ。よし、これにしよう。本の内容の解説を読む。

波乱の人生に委ねながら恋に生きる。男と女の物語――。義兄の弟との不倫関係から逃げるため、戦後下、仏印へタイピストとしてわたったゆき子。そこで出会った農村研究所所員、富岡と熱烈な恋に落ちたが、彼もまた、妻のある身であった。

Amazonから『浮雲』より

 これ違うな。

 林芙美子の『浮雲』であった。
 逍遥の『小説神髄』に“不審紙”を貼って逍遥宅を訪れた二葉亭のエピソードが、明治の先鋭なる「言文一致体」につながるのだけれど、そんな話はクラスメイトはしていなかったと思う。

ヤモメに食い入る

 私の古い新潮文庫版の目録ページには、チェーホフの『かわいい女・犬を連れた奥さん』が載っていて、源氏鶏太氏の『男と女の世の中』(1962年)も載っていた。

やもめ男とひとり息子を取巻く美女才女の群れ!

新潮文庫・目録より

 本を読んでいてうっかりすると、あちらこちらに彷徨ってしまうのである。
 ノーマン・メイラー(Norman Mailer)の『鹿の園』は、チェーホフの『桜の園』をもじっているのか? とか、ヘンリー・ミラー(Henry Miller)の『セクサス』(“Sexus”/上下巻)は、ミラー氏の華麗なる女性遍歴を想起させ、ここで一気に“ヘンリー・ミラー・コレクション”の全集(水声社・全16巻)が欲しくなってしまったわけだけれど、危うい。
 文学散歩は、危うい。いうなれば、散歩ついでに万札を毎日落としていくようなものである。まだそれよりも、大江健三郎の「連れてきた青年」にかぶれていたほうが無難だ。

 あ、さっき、やもめ、というのがありましたね――。

 最近、ある文芸雑誌を読んでいたら、見慣れない漢字に出くわしたので、読み返してみたのである。
 「鰥」。
 なんというかこの漢字、まるで魚が天日干しされて縄に垂れ下がっているみたいじゃない。
 でもこれを、やもめと読む。

妻と死別した男性。男やもめ。やもお。「鰥夫」と書き、「鰥」とも書く。

『三省堂国語辞典』第八版より引用

 詳しく書いてしまうと、その雑誌は『すばる』(集英社)2025年7月号で、川﨑秋子さんの小説「野良芋」から見たのだった。《老人の声に、暗さと下世話な響きが混ざる。なるほどな、と誠は納得した。男鰥で片足が不自由で、おまけに人好きのする性格でもなし》

 「おとこやもめ」とルビが振ってあるが、「鰥」の字だけがひどく浮いて見えた。そこだけ異形で太い明朝体で、別のフォントがあてがわれたのがわかった。ともあれ、骨ばった男の姿を想像するのはそう難しくない。

 三省堂の『漢辞海』第四版にそれなりに詳しく出ていた。
 「鰥」は魚名。単独でいることを好む。年老いて妻のない男のこと。やもお。ヤモヲ。
 熟語では、「鰥寡」(かんか)。老いて妻のないものと、老いて夫のないもの。
 「鰥夫」(かんぷ)。成人になっても妻のいない、あるいは妻をなくした男。男やもめ。
 「鰥居」(かんきょ)。妻がなく、ひとり暮らしの人。

【昔試してみたことのあるオートミール。】

備忘録・オンスの変換

 ウイスキーを飲むとき、今日はシングルか、ダブルか、などと考える。

 シングルは1オンスで、ダブルは2オンス。日本人にはあまり馴染みのない単位(度量衡)であるが、酒の場ではしばし使われる。

 そういえば昔、クエーカーのオートミールを1箱買ったとき、容量の表記を見ると、「80OZ」(5LB)2,26kgなどとあった。このOZがオンス(常用オンス)なのである。

 1OZは、28.349 523 125グラム。なので、このオートミールはそれに80を掛けて、2,267.96186グラムとなる。

 昔、漢字でオンスを「啢」と表記していた(上図左)。ちなみに、薬衡の薬用オンス(OZap)では、「℥」という記号を用い、上図右にある漢字で表記されていた。

 つまらぬ話を長々と書いてしまって恐縮である。
 要するに、片手に本を持ち、ウイスキーを飲んでいたい、という話――なのである。

関連記事

コメント

タイトルとURLをコピーしました