
私が敬愛する作家・芸術家の伴田良輔氏は、“ヒカリモノ”に妖しく惹かれ、その虜になってしまうのだということを、かつての著書『眼の楽園』(河出書房新社)の中で告白していた。
「ヒカリモノを求めて」
その『眼の楽園』の「ヒカリモノを求めて」のページで、いきなり視覚に飛び込んできたのは、「眼球のクローズアップ写真」だった。
目の玉なんて、もしかすると写真家なら、一度は撮ってみたくなる妖しい被写体なのかもしれないが、その写真のおメメの主はいったい誰かというと、実は御本人(=伴田氏)らしく、それはともかくとしても確かに、眼球の中央には、白くヒカるものがあった。この写真はお気に入りなのかもしれない。
いったいなぜ伴田氏が、光っているもの、テカっているものに惹かれるようになったのか。
それを探るのが肝心だ、と思った。
しかしながら、自らが“ヒカリモノ”になってしまうシチュエーションは好きではないといい、光っているもの、テカっているような衣装を好んで着たりすることはないそうである。
私はルチャドールのマスクマンが好きだった
少々私事で腰を折るが、子どもの頃、私はプロレスが大好きで、テレビのプロレス中継をかじりついてよく観ていた。
プロレスラーのスタイルはお国柄もあって多種多様だが、例えばメキシカン・レスラー(ルチャドール)のマスクマン(覆面レスラー)などには、たいへん強いあこがれを抱いたものだった。リングの中をスピーディーに動き回り、くるっと回転したり、飛んだりハネたり。
彼らマスクマンが着用しているマスクの素材は、詳しくいうとリクラ生地とかトリコットだったりが多く、ピカピカに光るマスクは、エラスラメというラメ糸が入った生地でできている。
私はその、ラメ生地でピカピカ光るマスクマンのマスクにたいへん興味を持った。見ているだけで現実世界から離れていき、遠い夢心地となるのだ。
その頃、おもちゃ屋さんに行くと、プロレスごっこ用のラメ製マスク(仕様が雑で安価)が売られていた。欲しくてたまらなかった。通販でも売られていたので、それを買うことができた時はもう有頂天になった。
自分でそれを被り、後頭部にある紐をしっかりと締めると、なにか自分がルチャドールになったような気がして、て、家の中でのプロレスごっこが、より激しく、宙をさまよい、布団のシーツがメチャクチャになって破れていくのだった。
私も光っているもの、テカっているものにすごく惹かれる人――だというのを、自己認識する思い出話である。
なぜヒカリモノを追い求めるのか
話を伴田氏の“ヒカリモノ”に戻す。彼はこんなことを述べている。
《自分の姿は限りなく消滅させつつ、眼だけがヒカリモノを追うことを欲求するんである》
映画を観れば、《金属、ガラス、液体類――車のウィンドウや、ボディ、コップとか窓ガラス、水たまりなど――の反射ばかり、知らず知らず目で追っている、というクセがあげられる》。
“ヒカリモノ”を見ると、虚ろになる――。
なんだかその恍惚感は、江戸川乱歩の妖しい世界観に近いとも思えるのだが、乱歩も当然、“ヒカリモノ”に惹かれる人だったはずだ。
いずれにせよ伴田氏は、根っからの芸術家タイプの人――ということが、こういったことからもよくわかるのだった。
しかしいっぽうで、“ヒカリモノ”に惹かれる、というのは、人類全体でいえること、すなわち、ヒトの視覚性における根源的な原理原則なのではないかという気がしないでもない。私は科学に弱いから、そのへんのことはよくわからない。
確かにどの国の子どもたちも、海やプールが好きではないか。海やプールでは水面が常に光っている。
子どもたちは水面の“ヒカリモノ”に惹かれ、そこに飛び込んでみたくなる。そういう衝動に駆られるからではないだろうか。
そういえば、ウルトラマンはヒカリのくにからやってくる。
ウルトラマンの作品では、画面上の特殊効果で、よく“ヒカリモノ”――フラッシュだとか多面的に反射光が揺れ動いているあれ――が適宜扱われていた。あれも子どもたちの視覚を惑わせ、“ヒカリモノ”に酔わせている。そしてまた、光の存在は、ヒーローがヒーローであるための必須条件ともいえるのだ。
ヒカリモノを身につけよ
その点から考えると、男女問わず、他人から好かれたければ、“ヒカリモノ”を身につければよい――という結論になる。
女性ならジュエリーを身につけ、色彩の鮮やかな服を着ればいい。靴もピカピカに光るような飾りがついていたほうがいい。口紅はやはり、テカテカしたものが人を惹きつけるのではないか。
男性なら、艷やかな革ジャン、白いシャツにゴールドのネックレス。髪もテカっていたほうがいいということになる。しかし、今の流行ファッションとはだいぶ逆行する感じになるのだが…。
昔、沢田研二さんが派手なファッションのコーディネートを基軸にして、あるべきスターを堅持していたように思う。やはり、時代に関係なく、人は“ヒカリモノ”を求めてしまうのではないだろうか。
最近の若者が、友達がいない、恋人がいないと嘆いている根本的な原因は、“ヒカリモノ”を身につけないせいではないか。
だいぶ以前から――ということにもなるが、のべつ、若者が好むファッションが、“ヒカリモノ”を避け、地味に落ち着いてしまっている点で、他者を惹きつけるだけの魅力を損ねている、とも考えられる。
むしろ若者たちは、自分を目立たせるよりも、公衆の内に埋没させたい、隠れていたい、できうるなら消滅していたいというカモフラージュ、あるいは隠蔽擬態化する欲求のほうが強いので、ファッションもおのずとヒカるわけがないのである。
そうして自己の内外の印象を地味にして、「ヒカらない」ことこそが、モテない原因ではないかと私は思う。このことは本心の「好かれたい」という欲求と矛盾し、内省的にジタバタするパターンとなる。
なので、思い切って若者は、“ヒカリモノ”をとことん身につけてみよう。局面がガラリと変わるかもしれない。

メイプルソープのタブショット
“ヒカリモノ”に惹かれ追従してしまう伴田氏は、「ヒカリモノを求めて」のトピックに併せ、ドン・ヘロン(Don Harron)氏撮影の、ロバート・メイプルソープ(Robert Mapplethorpe)のタブショット(1979年)を掲げていた。ちなみにタブショットとは、お風呂(バスタブ)に入った被写体を撮ることである。
長年これを眺めているうちに私は、ふと思った。メイプルソープが全てをさらけ出し、柔らかな“ヒカリモノ”に包まれている…。それだけのことなのに、なぜこんなに印象に残るのだろうか、と――。
ハロン氏は70年代にサンフランシスコで、有名人や知人や恋人などのタブショットを撮り始め、80年代にかけて精力的に多くの作品を記録した。残念ながら、これらの作品をコレクションした写真集が出版されている、という情報を、私は現時点で入手できなかった。そういった書籍は存在しないのかもしれない。
ただし、ウェブで全ての作品を閲覧することは可能だ。何らかの理由で消去されない限りにおいて。

ヘロン氏の撮ったタブショットを見ていくと、バスタブにはいろいろな種類がある――というか、バスルームにも多様な個性があることに気づく。
高い位置から見下ろすようにしてバスタブをとらえることによって、被写体の身体がくっきりととらえられているのだが、必ずしも“ヒカリモノ”がそこに現れているわけではない。しかしながらこのアングルがひな型となり、数々の有名人がほとんど同じサイズで自由なパフォーマンスを披露してくれているのである。
よくよく見ていくと、バスタブの中の“ヒカリモノ”に操られて被写体が芸術的に結合しているショットは、数少ない。メイプルソープの作品は例外中の例外であり、伴田氏があえてピックアップしたのも頷ける。他の人のカットでいえば、その神々しさに追従できるのは、アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)とも親しい写真家、クリストファー・マコス(Christopher Makos)氏のそれが匹敵するであろう。

真にその身体が中性であろうがなかろうが、あらゆる社交性の観念は取っ払われ、彼らはありのままの身体をさらけ出している。ここでの客体としてのメイプルソープは、写真家・芸術家という衣服も剥ぎ取られ、メイプルソープという人の身体的アイデンティティだけがアイコンとして記号化・記録されているのである。
これこそ素晴らしい芸術ではないだろうか。
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