
工業高校時代のある「思い出」の光景で、その時盛んに降っていた「雨」をどう表現していいのかわからず、匙を投げた――ということがあった。その「思い出」は文章に書けなかったのだ。いくら表現しようとしても、ことばの総勢が全て逃げていくといった感じで、「雨」の様子を心象的に表すことができなかったのである。
それでも永く、こうして文章を書いてきた人生なのだから、どこかしらその数十年前の「思い出」について、断片的な事柄だけでも書き残したことはあるはずなのだが、それすらも今となっては憶えていない。
なぜ今、それを書こうとしているかというと、「思い出」の中に記憶された古い商店の建物が、近年、どうやら取り壊されてしまったらしく、新しい家がそこに建てられたことに気づいたからである。
だから、もう「思い出」の場所は、無いのだ。
いま「雨」を書かなければ、それこそ本当に消えてしまう。そういう思いがあって、《詩情》として刻み込まなければならない問題の核心は、その時の「雨」をどう表現するか――なのであった。

「雨」に関わることば
書くことに見栄っ張りの矜持がある私にとっては、辞書・辞典を用意周到に使いこなすことはしごく当然なのだ、と思っている。手元には、いくつかの辞典を置いてある。電子辞書も使う。電子辞書が便利なのは、あの分厚い『広辞苑』(岩波書店)が収録してあることだ。
ともかくことばに迷ったり、語意を見失いそうになった時、辞書をひらく。それ以外でも、気ままに辞書を読むこともある。だが何故か私は、傍らに類語辞典を置くことをしなかった。それを“使う”ことに、無頓着だったのである。そのことが起因して、「雨」に関わることばをうまく見つけることができなかった、ともいえるのだ。
近年の小学6年生用の国語教科書『小学国語 六㊤』(教育出版)をひらいてみると、「雨」に関わることばを調べてつくる「言葉ノート」の例なるものが載っていて、幸いにしてこれが参考になった。そこでは「雨」の類語がいくつか示されていた。
霧雨、小雨、しのつく雨。
「しのつく雨」とは、《細い竹を束ねてつきおろすように、はげしく降る雨》とある。辞典で調べてみると、「篠突く」と書き、教科書に記してある“細い竹”とは、篠竹(しのだけ)の意で、細い竹の総称であることがわかった。
季節にかかわる「雨」もある。
春雨、梅雨、夕立、秋雨、時雨(しぐれ)、氷雨。
そう、「霧雨」(きりさめ)ということばも浮かんできた。一つ、思い出がある。
私の父は、生前、「霧雨」のことを、“きりあめ”といっていた。漢字を見たまま読んで覚えてしまったのだろう。いつも生真面目に“きりあめ”というので、つい私が、
「それはきりさめっていうんだよ」
と指摘すると、父は、
「そうか、きりさめっていうのか」
といって笑うのだけれど、日が経つとまた忘れて、もとの“きりあめ”に戻ってしまう。私も諦めて、父の前では“きりさめ”とはいわずに、“きりあめ”ということにした。物事の正しさよりも豊かなコミュニケーションを優先する。おそらく、自分でも正しいと思い込んで間違ったことばを使っている場合が、多くあると思う。指摘されれば直すけれど、自分で一旦覚えてしまったことばは、なかなかアップデートされていかない。
さらに「雨」に関わることば
その教科書には、寂蓮法師の『新古今和歌集』より、《村雨の露もまだ干ぬ槙の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮》とか、芭蕉の句《さみだれをあつめて早し最上川》も例として載っていた。
「雨垂れ石を穿(うが)つ」ということわざもある。
これは中国の『漢書』からきたことばで、雨垂れのような小さな滴であっても、長い時間をかければ石でも穴があくことから、どんなに小さなことでも努力すれば大成する、という故事成句だ。この場合の「雨」は、物事をつき動かすエネルギーとしての「力」なのである。
「晴耕雨読」(せいこううどく)ということばもよく聞く。
が、このことばは、その狭義の“悠々自適さ”にこだわらず、広い意味で“よく働き、よく本を読むこと”と解釈すべきかと思う。子どもが使ったりすると、少々鼻に掛けるきらいがあるけれど――。
ともあれ、日本語の「雨」のことばには、無尽蔵に豊かな風情がある。
――教科書を閉じ、「雨」の類語に及んだ。三省堂の『新明解類語辞典』をひらいてみたのである。
すると「雨」のカテゴリーの中に、まことにいいことばを見つけたのだった。
それは、「遣らずの雨」――。

雨降る土曜日の昼
工業高校時代、私には唯一無二ともいえる親友がいた。
いつもは原付バイクで帰るその友人が、ある雨の降る土曜日の昼、珍しく“バスで帰る”というので、私は自分が乗ってきた自転車をひきながら、学校からほど近いバス停まで一緒に歩いていった。友人が差す傘に、半分身を寄せながら。
古びた家屋の商店があった。木造の壁が煤けて黒く、薄い窓ガラスも曇っていて古臭い。昭和30年代の建物らしかった。まだバスが来る時刻ではないというので、店に入り、缶ジュースを友人に奢ってもらった。どんよりとした灰色の空から、雨は盛んに降り続いている。店の外でベンチに座り、ジュースを飲んだ。バスを待った。何かの会話をした。
雨はいっそう深く、白い靄ともなりながら、視界が遮られるほど盛んに降っている。会話が止まる。
そのうちバスがやってきた。友人は傘を折りたたんで、静かにバスに乗り込んだ。乗り込む直前、友人はこういった。
「これから家に遊びに来ない?」
私の中でぱちんと音が鳴った。一緒に乗っていくわけにはいかない。だって自転車をここに置きっぱなしにするわけにはいかないから――。友人は本気らしかった。私もその本気にどうにか応えたかったが、とてつもなく「無理」という思いが私の心に重くのしかかった。
私の体の中に、雨が浸透してきた。ひとつぶ一粒が、刺々しく体を刺激して痛みを覚えた。もし学校の駐輪場に自転車を置きっぱなしにしてきたなら、私は喜んでバスに乗り込んだだろう。明日は日曜日だし、なんの問題もない。
バスは大きな音をたてて去っていった。私はなにか、ことばを返したのだろうか。それすらもわからず、バスは遠くに逃げていった。
レインコートを着て自転車に乗り、あのバスが行った道とは反対方向に、私は帰っていった。そうだった。今日は土曜日だった…。心が折れそうだった。
遣らずの雨。
§
もうほとんど明滅して消えそうなくらいに古くなってしまった「思い出」の光景――。
例えば突然の雨に戸惑い、止むまでそこで停留する情景なのではなく、雨が降りしきる中、友は果断に去っていったということ。
「遣らずの雨」にもならない、「遣らずの雨」なのだけれど、なぜその日だけは原付バイクではなく、バスだったのか、なぜ私をその場にまで付いてこさせたのか、不動の過去は二度と遡れないし、真実は不明である。雨の中を、今も彷徨っているかのように、「思い出」はそれ以上の事実を伝えてはくれない。私は確かにその時、心がぐしゃりとやられて去ったのだけれど、心は其処に、居続けたに違いなかった。
「本心」と「発することば」の乖離こそが、私にとっては「雨」という表象なのである。「雨」はほとんど鬱陶しく物事の定義をうやむやにし、全てを流してしまうが、どこかに置き忘れてしまった気持ちというのがあったりする。それを、ことばにすることはできない。
近況、Googleマップで確認したところ、もはやそこに古びた商店の建物は無かった。ずいぶんと永くそこに在り続けていた家屋も今は消え、この「思い出」も雨のように流れていってしまうかもしれない。
「遣らずの雨」ということばを見つけて、ここに記すことができたのは、幸いであった。

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