ものかなしくてバグる世界

 去る2月9日、タレントの羽賀研二さん(本名・當眞美喜男)が「不同意わいせつ」容疑で逮捕されたニュースが目に止まる。
 懐かしき、いいとも青年隊だった頃の羽賀さんは溌剌としていた。有名人として、もはやその面影は遠く消え去ってしまっている。
 当ブログでおなじみ「バグる世界」の今年一発目は、彼に決まりだな――と思っていた矢先、TOKIOの元メンバーの国分太一さんが、「日テレ社長に謝罪」というニュースが飛び込んできて、一気に我が心の“羽賀研二旋風”も消え去ってしまった感がある。ちなみに、[カゼヒカル]のトピックスは急遽、国分さんに差し替えたのである(「国分さんが日テレ社長にお詫び」)。

羽賀さんの悪党性

 そんな羽賀さんのわいせつ容疑にしたって、いい歳してハレンチだなと思う。
 沖縄県内の飲食店で、女性2人に無理やり触ったりキスしたり――。逮捕歴も4度目。2007年に「詐欺」と「恐喝未遂」。2019年に「強制執行妨害等の疑い」。2024年に「強制執行妨害目的財産棄損等の疑い」。
 そして2026年の「不同意わいせつの疑い」。だんだんと逮捕歴の間隔が短くなっているのが気になる。次は来年か…。いやいや。

 世間の悪評は致し方ない面がある。
 とはいいつつ、私個人が羽賀さんと面識も付き合いも無い以上、彼をはっきりと「悪党」――と称するのは、いささか感情的すぎるとも思った。他人に悪気がある男。根っからの悪――といえなくもないが、自分自身で気がついたら、逮捕歴が4つも付いてしまった…ナゼ俺が?――という思いも、本人にはあるのかもしれない。それを「ニヒルな悪党」と呼ぶのであれば、そうなのだろう。

悪党とはなにか

 ニヒリズムにおける「仮面の悪党性」について考えてみようではないか。
 それはすなわち、他人がその人の内面を覗き見できない以上、本心がわからないもの、という定義において“仮面”なのである。無意識の“仮面”の場合と、本人がそれを意図して被っている場合とがある。いずれにしても、“仮面”は悪意性を帯びたものだ。

 悪党とはなにか? 悪意とはなにか? 悪の本質とは?
 それらは決して、ドラマティックな笑みを浮かべた、映画だとかドラマの役柄としての「悪者」(=演じられたヒール)を指すのではないことは、判断できる。しかし、悪人にだけ悪意があるわけではない。
 善人のふりをした悪意。良識者の見えざる悪気――。真面目さの中にこっそりと潜む、悪の兆し…。

 私たちはすべからく、羽賀さんや国分さんを「悪者」の矢面に立たせてしまっているけれど、悪と向き合う心は、むしろ私たちの側の内面としても、同じような経験の中で突きつけられているのであり、紙一重だといっていい。
 したがって、本当のニヒリズムは私たちのほうであり、「悪者」を見つめながら自己の悪をいい逃れしようとする心こそ、真に仮面を被った悪――これを「仮面の悪党性」と指していいのではないか。

Bのお坊っちゃまくん

 違う形での「仮面の悪党性」についてもふれておく。

 以前、「悲しいお坊っちゃまたちでバグる世界」で紹介したことのある、「お坊ちゃま気質」の殿方――大学時代に演劇をやっていて、卒業後、すっかり「働きたくない症候群」に陥ってしまった既婚者(Bの方)――。

 彼のブログ日記を最近、性懲りもなくまた読んでしまったのだけれど、その更新された投稿のタイトルやら文章に、「ものかなしい」ということばが出てきて、私は思わずもやっとしてしまったのだった。

ものかなしい?

 記されていた本文の要旨はこう。

 …日々の生活はとくに不自由でもなく、それなりの充足感がある。ところが最近、不意に「ものかなしく」なることがあった。
 休日、夜更かしをして動画サイトを眺めたり、好きな飲み物を勢いよく飲んだりした。
 そんな時、「ものかなしく」、ぽっかりと穴が開いた気になってしまう。そういう現象の理由なんて考えようとも思わない。ただ突然の自然災害に遭遇しただけ、と考えるようにしている。
 眠る時、妻に贈ったアイテムを自分で身につけたりして、そうすると「ものかなしさ」から抜け出せる。なのに、どうも最後の一歩が重い…。

 この日記を読んで、私は最初、「ものかなしい」を「物悲しい」と解釈して精通した気になっていた。
 しかしさらに読み返して、なんとなく疑問が湧いてきた。
 「ものかなしい」を、なんで「ものがなしい」って書かないんだろう?

 地方の方言?

 彼が書いた文章には、どこにも「ものがなしい」が無く、「ものかなしい」だけが存在する。
 わからなくなってきたので、「物悲しい」の語意を調べてみた。

理由もなくなんとなく悲しい。うらがなしい。

三省堂『大辞林』第四版より引用

物悲しさではない「ものかなしさ」

 「ものかなしい」という語は、その併記としても載っていない。
 例えば、物狂おしい(ものぐるおしい)を「ものくるおしい」とはいわないし、物臭い(ものぐさい)を「ものくさい」とはいわない。ただし、物恋しは「ものごいし」とはいわず、「ものこいし」が正しい。

 接頭としての「もの」は、形容詞や形容動詞、動詞に付いて、なんとはなし、とか、どことなくそのような状態である意を表すという。
 ではなぜ彼は、用法として普通見られない、「ものかなしい」をわざわざ使うのだろうか。たまたま彼は、「物悲しい」の「が」の濁点を、意図せず取り除いて「か」と書いただけじゃないのか。

 日本語変換アプリでひらがなを打つ時、フリック入力やトグル入力の場合、「が」と打つために、「か」を選んでから、「゛」を選択しなければならない。ローマ字入力では、「ga」と打てば、「が」と変換される。
 したがって、フリック入力やトグル入力を用いている人の中には、それを面倒くさがって、「が」と変換せず、「か」で代用してしまうことが少数ながらある。日本語変換で物臭な人はけっこう叩かれたりもする。

 昔よくあったのは、「YouTube」を「ようつべ」と打ったままにすること。一種の流行語だった。だからBくんも、ほとんど無意識に「物悲しい」(ものがなしい)を「ものかなしい」と記しただけなのではないか。

イメ語という概念

 しかし一方で私は、違う見解をたまたまネット上で発見してしまったのだった。
 それは、イメージ言葉。略して、イメ語。
 ある人の、もう15年以上前のブログに、それが記されていた。イメ語とは、自分の中で、そのイメージに合ったことば(日本語)を、ほとんど独善的につくってしまった語のこと。全く新しい造語のこと。

 着替える(きがえる)を「きかえる」。暖まる(あたたまる)を「あったかまる」。雲泥の差(うんでいのさ)を「うんどろのさ」。
 個人で勝手に使うのか、仲間内で使い回すのか、そのあたりのことはよくわからない。しかし、どれも本来の意味合いより、なにか可愛らしく軽い感じになるのが、イメ語のもつ不思議な魅力なのではないか。

 「物悲しい」は重い感じ、暗い感じがする。だから、「が」の濁点を取り除いて「ものかなしい」とすることによって、ニュアンスの違ったイメージを伝えることができる。つまり、「ものかなしい」は、「物悲しい」よりもかなりLight――軽いのである。

 色に例えてみるともっとわかりやすい。
 「悲しい」という語を真紅色だとすれば、「物悲しい」は薄紅色。「ものかなしい」は、もっと薄い「薄薄紅色」とでもいうべき色。
 こうした微妙なニュアンスは、古来日本人が得意とするもので、日本語の語彙のグレードを、より深いビット数で表していく心意気と受け止めることができる。こうした日本語のセンシティブな存在感に、外国人は歓喜したりするのである。

 八代亜紀さんの「舟唄」に、《お酒はぬるめの 燗がいい》という歌詞がある。これに喩えれば、
「ことばは軽めの 感がいい」
 となる。いつの時代の若者の話しことばでも、軽めにいい表すことが最重要なのであった。

軽薄なほど軽薄な詫び

 とはいえ、軽けりゃいいというわけにもいかない。
 「薄薄」の色ということは、要するに「軽薄」だともいえる。

 極薄な感情の切れ目を他者に伝えて、その哀惜なり哀願を乞う「軽薄」さは、他人の心を伺う術がないほど、愚かだということ。せわしい日常に囚われ、安寧や快楽を求める他者にとって最も有害なのは、そういう「軽薄」な人の悩み事でありお願い事だったりする。
 正直、〈こいつ、またかよ…〉と思う。

 優しい他者は、それでも耳を傾けてしまう。しかし、相手の、ほとんど感知されないような感情としての悲しみ、そんな微細なものを感知してあげるべきかどうかについては、微妙な問題である。「物悲しさ」に打ち拉がれている。ならば慰めてもあげたい。ところがそれが、「ものかなしさ」というくらいに「薄薄」な程度のものならば、あえて慰めてあげるだけこっちが不利益を被るのではないか。
 悲しみのチョー薄い感情に襞というものがあるならば、それは皮膚が渇いて剥がれ落ちるくらいの薄皮ではないか。「軽薄」なものである。えらく独善的で思い上がりの極みである。そういった方々を、私はあえて「お坊ちゃま気質」と呼ぶことに、批判する者はいないとさえ思う。

 イメ語は、一つ間違えれば、にわか悪意の専門用語となる。
 悪党用語だともいえる。悪気はないにせよ、無意識の悪質性が微量に含まれている。つまり、悲しみがめっぽう軽いがゆえに、他人が同情・同化するにも馬鹿馬鹿しいくらいに、生き方が軽微なのだ。

シーサーは悪霊を祓う

 そうした事柄を踏まえたうえで、例えば羽賀さんが逮捕されるたびに、「誠意」を尽くしてお詫びしてきた姿を思い出してみよう。国分さんが日テレ社長に「誠意」を見せた姿を、想像してみよう。

 本人の意思にかかわらず、それはあくまで、微量の、軽微な詫びなのだ。結局、その背後にいる本当の被害者たちには伝わらないほどの軽いもの。いわば見世物の「誠意」であることに、本人たちは気づいていないのかもしれない。

 では、Bさんの場合。
 彼がチョー軽めの悲しみを吐露した時、彼の奥さんは何を想うのだろうか。

〈あなた、またなのね…〉
 いったいあなたは、何がそんなに悲しいというの? わたしに、甘いチョコレートの一つも買わないで。あなたの日々の暮らしの中で、何がどう悲しいというのか、わたしに是非聞かせてほしいわ――。

 書き手の彼に思いを馳せるのではなく、叶うなら、その傍にいる者たちの姿や心情を、読み手である私たちはイメ語を尽くして言語化してみたいと思うし、書く立場として、そうあらんと心がけたい。
 世のお坊ちゃまたちは、常に「私の身に何かが起こった」と騒ぎ立てるが、いい加減にしてほしいと思う。

 ぐだぐだ騒ぐな、ばか。
 それぐらいのことは、いってやりたいのである。

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